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美術衛士バベット嬢の冒険 骸画材の掌編

青吊

娘が衰えてゆくのです。

母親の言う通り、その娘はひどく弱っていた。

痩せ衰えた長病人の様相ではない。けれど顔は蝋の白さで、病床から身を起こしはすれど、頭痛を堪えるように目を瞑っている。

シーツの上に重ねた指も青白く、時折小刻みに痙攣するのが見てとれた。

母親の傍らから伸びた手が、脈を取り、呼気の浅さを確かめる。娘に劣らぬ白磁の肌、桜貝のような爪。その手の主が、姿勢を正して母親に向き直った。

「仰る通り、娘さんは毒されている。」

靴の踵の高さもあって、母親をわずかに見下ろすかたちになる。落ち着いた、というよりは冷淡な眼差しに射竦められ、母親がわずかにたじろいだ。

言葉を発したのは若い女だった。病床の娘より四つ五つ年上なくらいだろうか。それにしては大人びた…あるいは"枯れた"、または古木のようなという表現の似合う…雰囲気があり、その視線を受けると値踏みされているような心地がした。

母親とて気の弱い方ではない。大商人と言っていい貿易商の夫を持ち、彼が航海のさなかにあれば、代わって会社を切り盛りする決断力と判断力を宿している。けれど今ばかりは掠れた声を震わせていた。

どうすれば、どうして、と問われて、相対する女が目を閉じる。黙り込み、十数秒ほど経て、再びその目と口とを開いた。

「居所を移るしかありますまい!」

二人で話す……それも衰弱した娘のそばで……それには到底似つかわしくない大音声である。驚きのあまり、娘すら重い瞼を開いた。

「顔料のせいか額縁の素材によるものか、それはまだ分かりかねます。けれど結局はその絵によるもの。あれの放つ毒素が、この部屋で寝起きする方を蝕んだのでしょう。」

女の目が寝台の長辺に面した壁に向く。薄青の下地に淡い白の花柄を配した壁紙に、異界を覗く窓のような絵画があった。黒い樫の枠に嵌め込まれた大きな絵である。幅も高さも大きめの本棚に相当するほどで、これが箱なら、寝台の娘など少し身を縮こまらせれば易々と収まるだろうと思わせた。

描かれているのはどこの屋敷か、胡粉色の石造りの壁にもたれて、こちらに背を向ける形で男が立っている。彼は絵画の右端、少し右肩が見切れる位置に立っていて、マシュラビーヤ……幾何学模様の木製の格子窓……越しに、外の風景を見下ろしているようだった。格子窓は画面の中央に大きく描かれていて、男の眺める砂漠の国の景色は格子越しにも透けて見える。晴天のもとに鮮やかなテントや売り物を広げた市場が軒を連ねているのが……注視すればその売り手や品物までも……見えるだろう。

格子窓は中央にあり、男は右端にいる。左端はといえば、織物で飾られた壁が描かれていて、それが人ひとり収まるくらいの面積なのと、手招くように持ち上がりかけた男の左手とが、鑑賞者を呼び止め、誘うような印象をもたらしていた。

「お嬢様はお気に召していたようですね。絵をねだり、部屋へ飾り、何度もかれの前に立ったのでしょう。」

そのせいで、と母親が俯く。

なら、部屋を移れば。けれど女は肯かなかった。それでは足りません、と鉄琴を打つような声を返す。

「お嬢様はこの部屋の外にも出たでしょう。元気な頃に、ですよ。その時すでに毒素を纏っていたなら、そこここに撒き散らしてしまっている。勿論、まずは部屋を移します。けれどその後は転地療養を。明日にでもね。そうしてしばらく他所へ移って、毒素が消えた頃、また屋敷に戻ればよろしい。」

人の出入りがあれば毒素も散ります。そう言って、女が絵に目を向ける。そうして一際声を張り上げ、言葉を続けた。

「とりあえず、今夜は客間でお過ごしいただきましょう。同じ階、西の廊下の端の部屋などいかがでしょうか。」



客間の扉がわずかに軋む。

人ひとり入れるだけの隙間が空いて、そこから長駆の影が滑り込んだ。

月明かりはカーテンの隙間から漏れるばかりで、壁際はおろか窓際も暗い。けれど影はといえば、衝立や小卓に引っかかることなく足を進めた。

真っ直ぐ向かった先はといえば、居室を移した娘のもとだ。浅い吐息に手を翳して、寝ているかどうかを確かめる。そうして眠る彼女の傍ら、枕元よりすこし下がった、寝台の上に浅く腰掛けた。

人影の手が娘の頬を撫でる。その先を躊躇うように、先伸ばすように何度も肌に触れ、髪に指を絡めた。そうしてから、やはり躊躇って、けれど顎から眉間までを覆うほどの掌で娘の頬を柔く捕える。

その肌が震えた。

指の下で肉が、皮膚が動く。娘の瞼が開いたのを感じて、人影がわずかに退く。

その背後で、ぽん、と火の灯る音がした。

人影が振りむく。娘に添えていない右手の指が、かぎ爪のように強張った。

かれの前には女が立っていた。燭台を片手に、昼間と変わりなく背筋を伸ばした姿で佇んでいる。

「ご足労をお詫びします、殿下。」

抑えた声だったが、やはり鉄琴の響きがあった。娘の前に立ち塞がるように人影が腰を上げる。にじり寄る。

そうして燭台の描く光円に踏み込んだのは、年若い異国の青年だった。薄い褐色の肌に黒い瞳、しなやかな長駆に綿布の長衣と金銀の装身具を纏っている。この国では見慣れない装束であるが、より目を引くのがその様相であった。

青年の肌はひどく乾いていた。ひび割れ、あるいは今にも剥がれそうな表皮がささくれている。否、剥がれている部分もあった。けれどずっと昔に削げたかのように、暗い室内で翳っているからというだけではなく、屍肉を乾かしたように紫がかった赤褐色の肉を晒している。その程度は鼻筋より右の半分が一際酷く、人の顔であることを保ったまま萎縮し、引き攣れ、皺だらけの皮膚でもって顔の半分を覆っていた。

「ご明察の通り、罠を張らせて頂きました。」

女が青年の目を見据える。青年の唸り声に、女は言葉でもって答えた。

「その通りです。我々には絵画言語がある。音を介する必要などございません。けれど、この場にはお嬢さんがいるでしょう。」

聞かせなければ。

そう言われて青年が目を伏せる。泳いだ眼差しが寝台の娘を捉えて、思い出したように顔を背けた。

女が燭台を遠ざける。傍らの小卓にそれを据えれば、灯りは青年の首元までしか届かない。彼の肩からわずかに力が抜けるが、けれど娘には背を向けたまま、女の言葉を待っている。

「あの絵は、あなたの屍体で描かれた。」

だから甦ったのだと女が語った。



マミーブラウン……ミイラを砕いて作った茶褐色の顔料……この画材が絵には使われていた。画中の壁、格子窓、外の砂塵とバザールの軒。人が収まるほどの絵なのだ、その大部分を塗るのにどれほどばかり使っただろう。内臓と水分とを取り除いて縮んだ人体、その骨片を除いた質量の殆どを使ったのではなかろうか。

「ここを訪ねる前に立ち寄ったのですよ。あなたの描かれたアトリエに、画商と絵師に話を聞きに行ったのです。」

画商は魔性の絵画様々だと笑っていた。絵師からは安く押し付けられ、しかし売れる時には言い値で引き取ってもらえたからだと。けれど、売った絵師は申し訳なさげにこう言ったのだ。

「彼が描いたのは窓だけなのだと、男なんて描いていなかったと言うんです。窓を描いているうちに勝手に浮かび上がってきたとね。何度塗りつぶしても浮かんでくるから、それを塗り込めるために壁を描いたとも聞きました。」

壁にもマミーブラウンを使ったようですが。

淡々と女が語る。使われたマミーブラウンの出所についても、女は掴んでいるらしかった。

「画材を売ったのは画商だそうで、さらにその画商は骨董屋から買ったと聞いていますが…骨董屋とは、果たしてどうだか。」

実のところは盗掘家ということだろう。少しばかり握らせれば、その出土場所の話についても画商は赤ら顔で語ってくれた。

「廃屋の地下に墓所が隠れていたそうです。古くは王家にも連なる旧家だそうで、副葬品の実入りは大層良かったと聞きました。」

けれど、その多くが魔除けであったという。しかも墓所への侵入者へ向けられるべきそれが、内部へ、棺に向けて置かれていたというのだから、この"骨董商"が墓所の主人を気味悪がったのも無理のないことだろう。

「咄嗟に砕いて売るとは、閉口する話ではありますが。」

けれど、身体を四散させられたからこそ甦った。冗談のような話だと女がにこりともせずに言う。そうして、経緯は存じませんが。口を開いた女の言葉を、錆びた声が引き継いだ。

「そうだ。異国の娘に心を奪われた。」

男の唇がかすかにわななく。躊躇うように伏せた目の端、黒い瞳が遠慮がちに娘を捕らえる。

「甦れど、所詮は絵だ。何をしたいというのもなければ、そもそも描かれた他には窓の外も部屋の中もない。彼女がおれを買い求めたのは遠く聞いたが、だからといって。」

そうだろう、と女を見る。



女はそれに首肯で応えた。

伏し目がちに男がそれを見、言葉を続ける。

「描かれた他には何も無い。……そうとも。そうだった。けれど、彼女がここに来れば違うのだ。」

彼女は飽きもせず絵を眺めたという。最初は椅子に腰掛けて遠くから。時には絵のすぐそばで、男と並ぶようにして。窓の外を見ていた、と男は言う。あれは近付かなければ見えるまい。けれど、その時はまだ隔たりがあったのだと。

「いつからかは分からん。同じ時間を共にしていると思うようになった。絵の内外もなく、此処に。絵画の壁は彼女の部屋の壁であり、彼女の寝台はおれの部屋の壁際にあった。彼女が窓を覗くときはおれの横にあり、眠る時はその寝息を背に聞いた。」

おれだけではないだろう、と男が振り返る。その背後で、娘は体を起こしていた。脚はまだ掛け布で隠したまま、クッションにもたれて両手を組む。重ねた指に白く力が入るのを見て、男が小さく吐息を漏らした。

「触れたものな、おれに。」

低い、吐き捨てるような言葉だ。けれど男の声には縋るような響きがある。

「……人の」

血が通った、生きたものの指に思えて。

言葉を継いで、娘は女を見た。

手袋を脱いで触れたのだという。硬く乾いた絵具に見えて、けれど娘の指を受ける弾力と、冬の調度とは異なる熱を帯びていた。

まさか、と思って、跳ね除けるように振り払った掌を、二度、三度と合わせてみる。

やはりそのたびに絵画は人の肌の感触を返して、怖いもの見たさの接触はやがて、視覚を窓の外に向けながら、傍らの存在を感じるための慣習になっていった。

途切れ途切れの言葉を迸らせて、喉の詰まった娘の手を、青年がゆるく押し包んだ。

「彼女がおれの全てになった。」

だから、と男が言う。

「見逃してくれまいか、美術衛士バベット。」



騙ってくれ、と男は続けた。

「彼女の家人に言ってくれ。毒などはなかった、自分の勘違いであると。あるいは別の絵、異なる調度がそうであったと伝えてくれ。名高い美術衛士の言葉だ、人も信じるだろう。」

できるだろう、と念を押す間も無く、女が、バベットが首を横に振った。

「貴方は人を害したと知れている。ならば人から離さねば、火を放たれるか、切り裂かれるか。」

いずれにしろ破損の憂き目に遭いましょう。

バベットの言葉に男の目が焦点を失った。

「お嬢さんが事切れる間際にいざなって、ともに暮らす夢でも見ましたか。」

答えずとも、男の顔がそうだと語っている。

皆が見る夢です、とバベットが頷いた。唯一無二の鑑賞者を失うのは恐ろしい、と。

けれど共感はしていても、声に許容の色はない。擁護に見せて重ねた言葉にもあからさまな棘が含まれていた。

「まして、貴方様なら尚更でしょう。」

乳母子の影武者に成り代わられたのだったか、それとも腹心の従者に家を奪われたのか。どちらだったかと訊くバベットに、しかし男は答えなかった。誰に、と低く問い返せば、貴方様の墓守たちに、とバベットが答える。掲げた左手の手袋をずらせば、その手首に嵌めた翡翠の腕輪が鈍く光った。盗掘屋、すなわち骨董屋からお連れしたのだと続けるバベットを、その翡翠の腕輪を前にして、恥じ入るように男の背が丸みを帯びる。

重ねたまま重みを増す指を、娘がゆるく握りしめた。それを目の端に捉えて、バベットが言葉を続ける。けれど、殿下。

「貴方様一人のために、マミーブラウンの使われた絵画を、ひいてはそれ以外の美しきものたちを、人の敵とするわけにはいかないのです。万が一にも『"眼下のバザール"が人を殺めた。他の絵画も危険だ』と思われたなら、我らすべての最期なのですよ。」

男が娘の指を解いた。二足歩行の獣さながらに長躯を丸めて、鉤のように力を込めた指を垂らし、バベットに歩み寄る。

腕を振り上げれば掴める距離で、男が唸るような声で訊ねた。

「なら、美術衛士よ。おれをどうする。殺して止めるか。けれど」

いかに同族とて、額から出た絵は殺せるまい。

獣じみた瞳が燃える。それを見上げて、バベットが肯いた。殺せない、とは言えますまいが、けれど無為ではあるでしょう。

「ですから、その前にご一考頂きたいのです。私をご覧ください。描かれたものが人の生気を身に受けて、こうして外を出歩けているのです。少し制約はありますけれどね。」

お嬢さんは生かしまま、あなたは絵画として永らえるままに、共に過ごす方法があるのですよ。

バベットの言葉に、男の目が大きく揺れた。

「知りたければ、どうぞこちらへ。」

バベットが燭台を再び手にした。男に背を向け、先に立って部屋を出る。人には聞かせられない話なのだろう。そう察して、けれど、部屋を出たなら、長く戻れないという予感もあった。燭台の灯が遠ざかり、届く光が途切れる間際、男が娘を振り返る。

いつか、と男の唇が動いて、けれど、僅かなれども光が及んだのはそこまでだった。

その先を知るには真っ暗で、

娘の目には何も見えなくなったのだ。




屋敷の前に馬車が停まった。黒褐色の、普通のものより縦長の籠を牽く、二頭立ての馬車である。小柄な御者が軽く帽子を傾ければ、既知であるらしいバベットが手を振り返した。

屋敷の使用人たちへ、布で包んだ絵画"眼下のバザール"を運び込むよう指示が下る。その後について身を翻したバベットを娘が呼び止めた。

「貴女も絵なら、どうやって額の外に。」

やはり男と別れねばならないのか。

どうにもならない、けれど訊きたい言葉は飲み込んで、代わりに非難がましく溢した問いだった。

おそらくその意は汲まれただろう。けれど彼女は顔色一つ変えず

「いいえ」

生まれながらの絵ではないのです、と言う。元は人間だった、絵に魅入られて引き摺り込まれた。そう答えるのである。

どうして、と娘が訊ねるが、果たしてどの「どうして」であったことだろう。

対する美術衛士が答えたのは、魅入られた理由にだけである。

貴女と同じ、と微笑んだのだ。

「きれいだな、と見惚れただけ。」

言葉を交わす間に、馬車の座席に絵画が運び込まれる。籠の後方だけ椅子のある、そう見ない馬車だ。座席のない、ただ壁と床だけのある方に恭しく立てかけられたそれを、後に乗り込んだ女が厚手の布帯で固定する。

「お嬢さん。」

籠の扉に手を掛け、女が娘を見た。

「そう気を落とさないことです。ゆっくり静養して、元気になったらまた、父君の買い付けにでも付いて行かれるとよろしいでしょう。」

熱砂の国などいかがでしょうね、思わぬ出会いがあるやもしれませんよ。

そう言い終えるが早いか、女が杖で屋根を突いた。トントン、と籠が揺れたのを受け、破風のグロテスクに似た御者が鞭を振るう。

「それは。レディ、一体……‼︎」

ミズ・バベット、と呼んだ声を置き去りに、馬車が屋敷の門を出てゆく。

衛士よ、と布越しに諫める声を受け、女が小さく溜息を吐いた。非難は横に置き、忙しくなりますよ、と女が言う。生きた絵画は数あれど、一人歩きできるのは一握りですからね。あなたはどうだか。

男の行く末を危惧するように見えて、けれど女には見えているに違いなかった。

砂埃舞う異国のバザールを、買い付けに来た商人の娘が行くだろう。掏摸も人買いも跋扈するその雑踏を、けれど彼女は従者の一人も連れずに行くのだ。砂色の肌の青年のみを傍らに、彼女は笑っていることだろう。

そして二人から一区画か二区画、少し離れた美術館では、小さな騒ぎになっているのだ。

"眼下のバザール"の男が消えた。これで今月何度目だ、と……。

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