「"鳥籠ジャック"がさあ……。」
「ウォーターハウスの件だろ。娘さんの。前なら、子どもはすぐ帰ってきたのにな……。」
一階下のアパートメントの話し声を耳にして、屋上を行く青年が眉をしかめた。僕じゃない、と呟きながら、尖ったヒールで屋根瓦を力任せに踏み砕く。
いま、街にはひとさらいが横行していた。
屋上を行くセドリック・ジョルダンもその一人であり、人さらいの筆頭の名をほしいままにしていた。昔は乞食に身をやつして街に出るのが趣味だったが、人さらいを騙りはじめて、その面白さにとりつかれたのだ。
背負うのは特注の大きな檻だ。それを背負って街の暗がりを行き来し、時にこれ見よがしに姿を見せれば、案の定人々は震え上がった。いつしかあだ名までつけてもらった。
"鳥籠ジャック"
悪名高い二人の"名無しの男"に次ぐジャックである。とはいえ、実際に人を攫うことはしていない。それは特に面白そうではなかったし、飼う場所も無いし、そもそもそんなことがばれたら、祖父の血管が切れるまで怒られるだろう。それはそれで想像するに愉快だが、実際に心労をかけるつもりはない。
それに、と青年が思い描いてにたりと笑う。好敵手ができたのも楽しみの一つだった。
人さらいの流行と同じくして、かの探偵たちに憧れる子女がいたのだ。貴族の怖いもの知らずと裕福な子どもたちを中心に徒党を組み、彼らは自警団めいたものを作った。人さらいこそは彼らの敵であり、中でも"鳥籠ジャック"を仇敵として定めてくれているのだ。
わざと姿を晒しての追いかけっこは日常のこと。時には自警団の年若い構成員を攫って知恵比べめいた犯行声明の手紙を出したり……彼または彼女らは適当なところに閉じ込めたあと、探偵たちが手こずるようなら"鳥籠ジャック"から姿を変えて助け出し、お茶をご馳走したあとで親元まで送り届けた……したこともある。ついでに他の人さらいの所へ飛び火させて、自警団に花を持たせたこともあったか。
青年はそれで楽しいと思っていたが、ある娘が消えて話が変わったのだ。
少年探偵たちのマドンナであり、セドリックにとっても高嶺の花である。アナグラムのような知恵比べは不得手であるが、直感的なことなら誰にも負けない閃きの持ち主だった。屋根や壁の上を走るのだって物怖じしない、勇敢で快活な少女である。
その彼女が消え、"鳥籠ジャック"から犯行声明が届いた。けれど、それは青年が出したものではなかった。
探偵たちが今度こそ血眼で"鳥籠ジャック"を追うかたわら、青年もまた寝る間を惜しんで彼女を探した。乞食に身をやつす、かつての遊びがこれほど役に立った事は無いだろう。文無しの友人たちの力も借り、青年は人さらいの根城を突き止めたのだった。
けれと彼は探偵たちを導くことを選んだ。そうして今度こそ"鳥籠ジャック"の予告状を出し、自分は一足先に根城へ馳せ参じていたのである。
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よく磨かれた黒い革靴が、石畳に堆積した生ゴミを踏みしめた。ともすれば獣の糞便などにも足を滑らせながら、その持ち主たちが裏路地を駆けていく。揺れるランプでは行き先など知れようはずもないし、一息ごとに横隔膜を毟られるように痛む肺では息切れも近いだろう。けれど一足でも、少なくとも共に走る彼よりは、繁華街の大通りへ近付きたかった。彼らの背後では警笛と若き道楽探偵たちの呼び合う声が響いている。裏路地の通りを二、三挟んで、まだ遠くはあるが、彼らの後を追ってきていた。けれど、彼らが背を向けたいのはそれらではない。男たちは言うなれば元締めである。この界隈で増えた人攫いの胴元であり、他所へさばくも、身代金を求めるも、彼らの一声で決まったものだった。
彼らだけは、先程根城に踏み込んできた警官や探偵たちに顔を見られていない。どこか適当な隠れ家で一晩明かすか、あるいは居宅へ帰りつけばいいはずだった。
乗り込んできた敵が皆、銃や壁で防げるものならば。
宿屋や飲食店の裏通り、乱雑に置かれた木箱に脛をぶつけながら曲がった角の先に顔を向ければ、果たして月明かりの注ぐその小路の先にこそ、ガス燈輝く大通りが見えた。
男たちは荒い息の合間に耳を澄ます。追跡者たちの足音は遠い。恐るべき追手の笑い声もない。振り切ったものと見て、乱れた上着と髪を直しながら、月明かりの中に踏み込んだ。
その頭上で、乾いた破裂音が響く。
見上げた先から降り注ぐのは割れた瓦。破片で視界の潰れる前に、男たちは屋根の上に蜘蛛を見た。遠景にしても巨大な、目の前にしたなら人の背丈など越えるだろう大蜘蛛だ。屋上を踏む二対の脚、そのうちの前脚でもって雨樋を掴み、勢いよく蜘蛛が路地の外壁を滑り降りた。
蜘蛛が後脚でもって直立する。……否。
男たちの前に立ち塞がったのは、歪んだ体躯の青年だった。長さの違う両手を垂らし、腿も膝下も、足の大きさすら異なる両脚、爪先立ちと言えるほど踵の高い靴を履いたそれでもって、石畳に針を刺すがごとく立つ。
その痩躯を支えているのはいびつな二本の脚と、自身の体躯より長い杖だ。ガス燈より少し短い、点火棒にも似た杖の先端には、子どもが三、四人は詰め込めそうな籠が下がっている。蜘蛛の腹部と見えたのはそれだったのだ、と男の一人がひととき放心した。
「僕の名前を盗みましたね。」
青年が一歩、踏み出す。
「どちらが盗んだんでしょう。あなた?それとも。」
あなた、と言うたび、距離が詰まる。一歩ごとに杖の石突……否、東洋の薙刀のごとく先端に取り付けられた片刃が、耳障りな音を立てて石畳を削った。
「同じだろう……どちらでも、お前には……。」
男のかたわれが懐に手を入れる。青年との距離は杖一つ分にも縮まっていた。銃であれば外さない距離だとグリップを握って、けれど。
「同じではないんです。」
青年の杖が籠ごと回る。石畳に火花を散らし、車輪のように一回り。杖の長さはそのまま間合いに変わり、懐に手を入れたままの男の体を潰していた。横転する馬車さながらの音に大通りの人々が辺りを見回すが、月明かりより明るいガス燈の下からでは、裏路地の暗がりなど見通せようはずもない。
したたかに体を打ちつけた男は白目を剥いている。掌ごと懐から溢れた銃は手指がからんだままへしゃげていたから、傍らのもう一人が拾ったところですぐには使えないだろう。
化け物め、と男が青年を睨みつける。何が"僕の名前"だ。
「人買いを真似たのがお前だろう。とことんまで邪魔しやがって……!」
抜いたナイフは虚勢と同じで、牽制のために構えたに過ぎなかった。それを見抜いて青年が鼻で笑って杖を回す。彼が軽々と回しても、当たれば警棒で殴られたようなものだ。男の手の甲ごと跳ね上げられて、ナイフが高く宙を飛ぶ。
「まるで分かってない。僕はね、金のために人を攫ったことなんてありませんよ。」
自分のためではあると青年が言った。こんな体で浴びる喝采、その価値が分かりますか。
「カカシみたいなヘボ役者でも、大都市の威光を借りればこの通り、その日暮らしの不安をひととき忘れる話の種にもなれるのですよ。」
男の胸を杖で小突けば、その体も石畳にへたりこむ。彼の喉元に切先を突き立てて、分からないから盗ったんでしょうね、と青年が笑った。
「これからも貴方のような方が出るでしょう。人の気も知らず、当たり役を掠め取って泥を塗る。許し難い話です。だから訊いたんですよ。どちらが盗ったのか、見せしめになるのは……。」
青年のヒールが男の上着を踏みつける。昆虫標本さながらに石畳に縫い付けられた彼に、さながら大蜘蛛のように覆い被さった。
杖と二本の脚で体を支え、青年が懐に手を差し込む。見せつけるように取り出したナイフを振りかぶって、しかし。
「"鳥籠ジャック"!」
年若い、けれど堂々とした声がその手を止めた。
青年が緩慢に前を向く。目の前に立つのは六、七人の少年少女だ。子どもというには立派な背格好で、青年よりは年若くいとけない。そして何より彼らは、活気と利発さに満ち溢れた、一度見れば忘れ難い目をしていた。杖を構えたままの青年の口元が、左右に裂けたように吊り上がる。
「お早いご到着ですね、探偵どの。」
「それはそうさ!」
慇懃な挨拶に元気よく返すのは、モスグリーンのドレスの小柄な少女だ。
「お見通しなんだよ、彼らが"ジャック"でないのも、君が偽物にブチ切れてるのもね。」
胸を張る彼女の横で、黒い燕尾服の青年が鞄を探った。取り出したのはボウガンだが、はなから抜け出すつもりだったとはいえ、夜会にも持ち込んだのだろうか。ばねを軋ませて装填された矢を前に、ご慧眼ですね、と青年が……"鳥籠ジャック"が鼻で笑った。それで?
「この後はどうするつもりです。今日の僕は何もしていない。ちょっと無礼者と行き合って、その始末をつけただけですよ。それでも、人攫いだからと捕まえますか。……捕まえられますか?探偵どの。」
くつくつと笑うその背後で、高らかに警笛が鳴る。"鳥籠ジャック"の頬が引き攣った。振り返らずとも、大通りに面した小路から警官隊がなだれ込むのが足音で知れる。
最初に彼を止めた青年が一歩踏み出した。黒髪に切長の青い目をした青年だ。決着をこの状況に見てとって、彼の頬にこそ笑みが浮かぶ。倒れた男たちに振るわれた杖や籠を前に、少年少女はしかし、"鳥籠ジャック"の行手に怖気付くことなく立ち塞がった。
「どうする、"ジャック"。逃げられるかい。逃げてみるかい?宙を飛ぶかな、それとも壁でも登るかい。その重そうな籠を背負って……」
知っているのだ。"鳥籠ジャック"は子どもに、彼らを決して傷付けるわけがないのである。
"鳥籠ジャック"が彼らを、そして背後の警官隊を交互に見る。そうして探偵たちの筆頭を務める青年を見つめ返した。"鳥籠ジャック"が笑い出す。高い踵が二度、火打石のように石畳を叩いた。探偵の一人がボウガンの引き金に指をかけたその瞬間、"鳥籠ジャック"が跳ぶ。石畳を蹴り、あるいは杖を支えに木箱の山を駆け上がったのだ。踏んだ側から雪崩れるそれに走り寄った警官隊があわや呑まれかけて悲鳴を上げれば、小馬鹿にしたような一瞥を寄こす。そうして"鳥籠ジャック"は窓枠や雨樋を足掛かりに、壁を歩くようにして上へ、集合住宅の屋根へと逃れたのだった。ボウガンも銃も易々と届かない階上で、"鳥籠ジャック"が高らかに笑う。カーテンコールの俳優さながらに両手を広げ、一礼。半月ながら煌々と照る月を背後に、声を張り上げる。
「どうでしょうね、探偵どの!ご希望通りの壁登り、お気に召したら、どうぞ拍手をいただけませんか。」
また、"鳥籠ジャック"が哄笑した。見上げた少女探偵が幼稚な悪態をつき、ボウガンを下ろした青年が眉を顰める。けれど、屋根に立つ彼と視線を合わせた探偵筆頭の青年だけは、友人達に見つからないよう半歩下がったところで口の端を吊り上げていた。その彼の両掌が緩慢に持ち上がる。そうして"鳥籠ジャック"の望むままに拍手を返した。
「全く、してやられたよ、"鳥籠ジャック"!だが、今回だけさ。次に相見えたら……!」
線路の果て、下水道の端までだって追いかけてやる。そう続ける青年の言葉に、ほかの探偵たちも声を合わせた。楽しみにしましょう、と"鳥籠ジャック"か応える。それならば。
「今夜はお暇させていただきますよ。警官さんたち、この身を譲る気はありませんから……追うなら、どうぞそのおつもりで。」
高笑いとともに屋上を駆け出した"鳥籠ジャック"を慌てて警官隊が追い始める。徒歩で路地に駆け込み、あるいは大通りに留めていた馬を駆るが、けれど壁も道もない空の下を行くのに比べて、どれほどのものだろう。汽笛や蹄の音に高笑いが紛れるのに耳を澄まして、帰ろうか、と探偵少年の一人が口にした。
そうだね、そうしようか、と探偵たちが顔を見合わせて、けれど名残惜しげなその背中を、あの探偵筆頭の青年が押した。
「また"ジャック"のやつを追うために、英気を養っておかなきゃな。さあ帰ろう!今日はもうお開きだ!」
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