お二方は、と問われて顔を見合わせた。
片や、色とりどりの染め具を頭から被ったようなまだらの長い白髪の青年。片や、それより拳一つぶん背の高い猫背の青年。ふたりともドレスコードたる黒の燕尾服を纏いながらも場にそぐわない立ち姿ゆえ、壁の花に徹していたのだ。そもそもは「悪い虫がつかないように!」と招待者の父親から派遣された身であればこそ、花より防虫剤と言う方が相応しいかもしれない。それなら毒花どころか幽霊柳さながらの姿が舞踏ホールにいるのも紳士淑女諸氏にご納得いただけようものである。
その二人に踊らないのかと訊いた彼女こそ、その招待者であった。蒐啾亭……東洋の"驚異の部屋"たらんと目指したこの私設博物館の館主の詩文仲間である彼らの雇い主の一人娘、繭子嬢である。黒髪というには栗色がかった髪を電灯に淡く輝かせて、頭二つ分も低い場所から彼らを……彼女の背が一際低いわけではない、二人が西洋人並みに丈高いゆえである……見上げていた。彼女が雇い主の娘とはいえ、二人にとっては縁遠い存在ではない。そもそも山仕事や敷地の整備くらいしか役に立たない二人である、今夜のような彼女のお守りこそがここ十数年の本分であるから、侍従か乳母かといった二人からすれば聞き慣れた……けれど突拍子もない……わがままだった。とはいえ、今夜は人の目がある。彼女のように生まれた時から異形のものを従えている者ばかりではないから、
「繭子お嬢さん、そればかりは……。」
斑白髪の青年がそう言ったのも無理からぬことであった。微笑みながらも眉尻を下げ、私どもには構わずに、と彼女をホール中央へ押し戻そうとする。そう仰るでしょうけど、と彼女が笑った。
「踊りたいって方がいるの。篠鞠様……蒐啾亭さまの娘さん、スミコ様よ。」
こちらへ、と呼ばれたのは墨の名の似合う黒髪の娘である。淑やかというより恥ずかしがり屋とでも言おうか、白粉の上からもわかるほど顔を赤らめて、肩を強張らせたまま三人の方へ歩いてくる。
「まさか辱めたりはなさらないでしょうね。」
ずいぶん周到にお育ち遊ばされて、と斑白髪の青年が聞こえよがしに片割れへ囁いた。猫背の青年も片眉を上げて応え、仏頂面をさらに顰める。
「どうする。」
「どうするったって俺は踊れんぞ。」
「踊れないったってどっちかが踊るしかないでしょうよ。」
「俺はできない。」
「あたしと随分練習したくせに?」
「お前は男だろう。女なら駄目だ。不義になる。」
「そんなこと言ったってお嬢さんが……。」
小声ながらも、もぞもぞと言い合うのは傍目に見ても明らかだ。微笑むも視線を落とす墨子嬢を隣に、取り合いは終わりまして?と繭子嬢が語気を強めた。ええ、ええ勿論。斑白髪の青年がにっかりと笑う。
「僭越ながら、わたくしが。」
染め物の匂いはご勘弁を、と慇懃に、けれど英国仕込みの作法で墨子嬢の手を取った。薄紫の唇で手袋越しに、彼女の指先に口付ける。安藤センと申します、と名乗りをあげれば、墨子嬢のか細い声がそれに応えた。
「なら、私たちは……。」
猫背の青年を見上げた繭子嬢を、けれど斑白髪の安藤が押し留める。いえ実はこいつ妻が居りましてね、とまくしたてるのは先程の話で、
「聞いたことないわ。」
「話しておりませんから。」
そう青年が認めるものだから、繭子嬢もそういうものかと、
「なら、お二方。」
行ってらして、と次のワルツに向けて背を押した。けれど。
「そういうわけには参りませんよ。それじゃ何のために獣に芸を仕込んだのやら。」
あれをやりませんか、繭子お嬢さん。
背を押す手を柔く留めて、安藤が、しばし失礼、と墨子嬢に目礼するや駆け出していく。
どこまで行ったものか、間も無くして繭子嬢が訳知り顔になる頃に戻ってきた。
「ほら甚平、あなたのお相手だよ。」
安藤が手渡したのは繭子嬢のコートである。本来なら西洋の淑女が乗馬の際に着るもので、ドレスの上に纏うわけだから、雨や夜霧でも型崩れしない頑丈さとドレスさながらのシルエットを併せ持っている。
すん、と猫背の甚平が鼻を鳴らした。期待を隠しもしない繭子嬢を見下ろし、さあお立ち合い、これから間近でお見せしますはワルツを踊る人虎でござい……と墨子嬢に向けて戯ける安藤の髪を、首よ折れろとばかりに後ろへ引き遣る。そうしておきながら顔色一つ変えず、引き潮のように退く、先の踊り手たちの流れに逆らうようにして先陣を切った。今日に乗馬コートの腰を抱いて直立させ、その姿は首の無い淑女をエスコートするようである。
「ささ、わたくしたちも。」
安藤が遅れて続き、墨子嬢の手を引いた。人波離れて遠くに見たからだろう。甚平の巨躯を支える脚は獣に似て折れ曲がり、骨の異常だろうが、傍目に見れば希臘神話の牧神に似た立ち姿である。先程の仕返しで髪の解けた安藤もまた、手袋の隙間や首筋、耳元などに鮮やかな赤青緑の痣を帯びていて、白髪鬼と呼ぶには些か色とりどりなれど、幽鬼さながらの気配がある。けれど、広間の中央へ進み出て胸を張る二人はといえば、声高な囁き声を前にしても臆する様子は見られなかった。墨子嬢の腰を抱く安藤など、慣れた様子で大きく手を広げ、西洋式の礼を返しまでしている。片や甚平はといえば……乗馬コートにこの場にいない奥方を見ているのか……コートの袖を肩に絡め、本来なら人の首が乗るあたりを蕩けそうな目で見下ろしていた。
この二人とともに踊れば、夜会が終わる頃には墨子のことなど観衆は忘れているだろう。否、それどころかワルツが終わる時だって憶えていないにちがいない。人の目を気にしすぎるきらいがある、というのは父親伝いで親交を結んだ繭子嬢の弁であるが、その墨子嬢をして、この異形二人をそばに置くのはどこか安心できるものがあった。
惚けた墨子嬢の手を支える掌が不意にうごめく。支那帰りの田舎者でありましてね、わたくし、実を言うとこんな広間で踊るのは久方ぶりでございまして。眼を遣れば、とんとんと器用に指で合図し、気恥ずかしげに安藤がささやいた。大目に見てくださいませ。
「さ、参りましょう!」
こそこそと笑って、腰に回された掌が墨子嬢を押した。勢いに任せれば、花筏さながらに体が動く。手を引き、あるいは背を押しながら、ほっほ、と安藤が笑った。眼を身開いた先は墨子嬢の足元である。若草色の布地に刺繍された小花を藤に例えて、やあ絢爛、と嬉しげに囁くのだ。頬を染めた表紙にヒールを滑らせた墨子嬢を、けれど通りすがりの掌が支えた。手の主人は安藤たちの群舞の内側、逆回りで踊る列に加わった甚平である。乗馬コートの腰に回したのとは逆の手で押したのか、その間、宙に舞わせたコートの袖を受け止め、進みながらくるりとコートを回してみせた。
「野獣の爪がおいたをしたようで。」
申し訳ございませんね、と甚平が墨子嬢を受け止め、そのまま一回転の動きに移る。その声を耳に、墨子嬢の目が一波に遮られた甚平を追った。薄紫、青磁、白緑のドレスや黒、灰色の燕尾服の隙間でボルドーの乗馬コートが踊っている。果たして透明な淑女と踊るような姿を前に、群衆が小烏のように口を開けて眺めるのが見えた。否、淑女ではなく赤い孔雀か大蛇だろうか。乗馬コートの裾すら自在に操って、時に自身の脚と絡めるように、あるいは大輪の牡丹を寛げるように、甚平は人波を割っていた。それでいて、周りには一切気を配らない。乗馬コートが他の紳士淑女とぶつからないようには動いているが、背中や肩に目でも付いているかのような様子で、長い前髪から覗く目はといえば、やはり不可視の奥方をこそ熱っぽく見下ろしていた。
「よそ見でございますか、墨子様。」
妬けちゃいますねえ、とは慇懃に安藤が片眉を吊り上げた。甚平の真似だという仕草に破顔すれば、安藤も笑う。
「安藤さんは。」
「ええ。」
繭子様とどのような、と訊けば、おむつを変えたのがわたくしです、と安藤がにやついた。
「支那から渡る時ですか、父君に雇っていただきましてね。元は染め師として参りましたが、今はこの通りの乳母崩れでございます。」
「染物屋さんですか。」
「ええ、不思議の染物屋。昔は戦に科挙にと繁盛したものですが、良い時代になりましたから閑古鳥が三世帯で住み着きまして。」
かあかあかあ、とカラスの鳴き真似のかたわら、持ち上げた墨子嬢の細腕を軸に一回し、安藤がくるりと翻った彼女を抱きとめてまた流れに乗った。どんな染め物、いかなる不思議かと申しますとね……おっと。
ワルツが途絶え、人語のざわめきが戻ってきていた。流れかけた墨子嬢を受け止め、人波にまぎれて壁際へ戻る。場所が元いたところに近かったこともあって、早々に戻った二人を繭子嬢が出迎える。
「お上手よ墨子様!壁際に鏡があるでしょう、ご自分の姿をご覧になりまして?まあなんて素敵な、って私、もし幻灯機が動くものを写せたら持ってきたのにと思いましたのよ!墨子様のお父様、もしかしてそんな収集品をお持ちだったりされませんこと?」
淑女の仮面を放り捨て、本人以上に黄色い声をあげる繭子嬢に墨子嬢がはにかんだ。そう?ほんとうに?と破顔するのへ赤べこのように肯き返し、お見事でしたわ、ともう一度背を押した。
「なにをなさるの?」
「もう一曲見せていただけないかしらって。」
ね、と上目遣いで見上げられて、いけませんよ墨子様、と安藤が耳打ちする。
「ご学友ならご存知かもしれませんがね、繭子お嬢さんときたらこの目で誰でも言うこと聞くと思ってらっしゃるんです。たまには厳しくしないと際限がございませんからね。」
さあこちらこちら、と令嬢たちの手を引いて、安藤が長椅子へ二人を座らせた。近くを通った給仕の盆から梨の香りも華やかな果実水を取り上げて、それにね、と彼女らに勧めながら言う。
「見世物ならいいのがちょうど、ね、ほうら。」
安藤が半身を下げる。ちょうど人の隙間から見える舞踏広間で、見覚えのあるボルドーの花弁が翻った。バイオリンもチェロも空席だが、余興にとピアノを借りたのだろう、楽団員とは異なる男がピアノを借り受けて弾いているのは、ショパンのワルツ、19番。それに紛れるように、安藤が小さくうそぶいた。
「東西、東西、紳士淑女の皆々様。これなるは踊る虎男……。」
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