「重い鉄扉が閉まるのを見届けて、ぼくは絶望的な気分になった。目の前が真っ暗になるというのはまさにこの事。目は見えていたが、周りの景色なんてこれっぽっちも入ってこなかったんだ。」
壁にもたれた青年が朗らかに笑った。所々ひび割れてざらつくコンクリートの床に腰を下ろして、手足を投げ出してくつろいでいるのだ。あるいは、両手足に着けた鉄枷が重くて立っているのが辛いのだろうか。
ぼくを連れてった奴らがまた陰気でねえ、と、彼を見定める目を知ってか知らずか青年がまた愉快そうに笑う。それを見た途端、もしかしておかしくなってるのかな、と、この部屋の先輩を見る目が厳しげに細まった。
「アッハッハおまえらの命も今夜までだぜ!今日は人肉ステーキだヒャッホウ!とでも笑ってくれればよかったんだけどね。そしたら反骨心でも湧いたかもしれないのに、奴らホントにぼくらのことを可哀想だって目をして見るんだよ。恨むなよ、なんて言われたりもしてさ。」
もうぼく泣いちゃったよ、と言う声色には欠片も悲壮感が無い。5歳の時に物置に閉じ込められて号泣した。その類の、大人になったからできる笑い話を聞いているようだ。一言青年が喋るごとに聞き手が苛立ちを募らせるのを分かっているのだろうか。
電車の一車両を見回せば10人は見つかる髪型に、ワイシャツとくたびれたネクタイ、そして黒のスラックス。あまりに凡庸な姿の青年だったから、この状況だけで参ってやしないか……。そう思って気遣ったのに、まるでその様子が見られなかった。脱走の時は守ってやろうと決めていたのが、助けなければ人としてどうかと思うから、と。倫理の物差しで測ってやっと優先順位が……そこそこ低めに……見積もられているのが現状である。
「人ってもう無理ってなると情けないもんだよ。帰りたい助けてって泣いちゃってさあ。俺三十越えてるのにだよ。あ、見えない?……見える?そっかあ。」
聞き手が胡乱げな顔を隠そうとしないのを誤認してか、青年がケラケラと笑う。
「そしたらさあ、実はね、部屋に先客がいたんだよ。そいつが声をかけてきてね。」
『活きがいいのが来たな。』と笑ったのだと言う。心底嬉しそうだったから青年はそれこそここがどん詰まりか鬼の餌場と怯えきったのだが、先客は慌てて訂正したらしい。
『皮肉とかじゃねえよ。心から喜んでる。お前になんかしようとも思ってねえ。』
まるで本当とは思い難い厳しい声だったが、声色からは本心と知れたそうだ。声のした方へ目を凝らせば、壁際の暗がりからずりずりと四つん這いの男が這い出してきたという。
「ビビるよね。しかもその人さあ、見た目からしてやばいの。オールバックのロン毛だから女幽霊みたいになっててさあ、しかも髪の毛の内側なんか真っ赤なインナーカラーにしてて。」
血塗れの半死人みたいな頭ばかりが記憶に残って、正直なところ服装などは思い出せないと青年が笑った。けれどよく見れば男の両手足と力手首はそれぞれ板状の枷が嵌められ、さらにそれを棒状の枷で連結して立てないようにされているらしかった。彼も自分と同じ虜囚と知れれば、恐ろしさも少しは薄れる。
得体が知れないのは変わらないが、同じ境遇なら下手なことはしてこないだろうと思われた。何より男の嬉しげな顔は……長い髪の隙間から覗き見た程度だが……それなりに人懐こい顔立ちで、警戒心が緩んだのだという。
「でもさあ、その人、何つったと思う?」
『これ引き出してくれ。』
手が自由なやつを待っていた、と男は開口一番満面の笑みで言い放って、口を開けたそうだ。
「ベロにさ、何か結んであんの。黒い糸みたいなやつ。……あ。その顔、分かる?分かったでしょ。」
青年がにたにたと笑った。聞き手の頭に浮かんだ絵面が正解だと言いたげな顔で、回答を待っている。仕方なしに黒糸の正体を口にすれば、青年が大きく何度も肯いた。
『体毛ってのはケラチンとかいうやつでできてるらしくてな。このケラチンってのが人間の胃液じゃ消化できねえんだよ。そのうえべらぼうに強くて切れにくい。だから、だ。』
「秘密兵器を胃に隠したんだって。で、そう言ってさ、また言うんだよ。」
『これ引き出してくれ。おれがえずいても気にすんな、慣れてる。十年前から逆流性食道炎で通院中だ。でもゲロ吐きそうに見えたら、汚れちまうからちょっと退いててくれ。』
仕方なく……他に打開策も無かったし……青年は男の舌に結んだ髪を手繰ったという。嘔吐こそされなかったが、引き上げる青年が涙目になるくらい苦しげな声を男はあげていた、と青年がこれ以上ない渋面をした。
そうして引き上げられたのは、大人の掌ほどの大きさで胃液まみれの黒い塊……棒状の物体だったそうだ。
黒いもののほとんどは髪の束で、
『ちょっとコツがあってな。』
そう言う男が器用に片手で解いてみせたという。
「中身はね、ボールペンみたいな細い棒だった。大理石とかなのかな……青白くてたまに黒い線が入った石でできてるみたいで、何かぬるぬるしたツルツルの模様が入ってた。あとね、胃から出したわけでしょう。なのにすごい冷たかったのを覚えてるんだ。」
『小刀さ。』
男はそう言って鞘を抜かせたという。
魔法の杖か何かのように見えたから期待したものを、出てきたのはカッターより細い刃をした小刀である。刃物でも無いよりはマシだろうが、果たしてそれでなにができるのか、と。
「ぼくもね、今の君みたいな顔してたと思うよ。なーんだっていうか、だから何っていうかさ……でもね、あの人こう言うんだよ。」
『魔法の杖でなきにしもあらずって言ってもいい。』
聞き手同様に思いきり顔に出ていたらしい落胆を見てとったのだろう。それと青年、そして手枷と棒枷とを目配せして男がこう言った。
『これ切ってくんねえか。』
「何言ってんだこいつってなるよね。分かる。でも斬れたんだよ。その人がモニョニョって何か唱えたらね、ちょっと固い粘土を切るみたいだった。」
テッキラバキウとかなんとか言ってさ、と青年の手が包丁のように動いた。得意げに胸を張る姿に聞き手が身を引く。それを追うより更に身を乗り出して、青年がその後のことを語った。
「手枷が切れたら扉も切れるわけでしょ。だからドア切って脱走してさあ。その人どんどん先行っちゃうからぼくもそれについてったの。ほんともう快進撃だよ。途中で筋肉もりもりした警備の人とかやばい番犬……犬かなあ……ワニだったかもしんない。舌がすごい伸びるやつ。それとかもうズンバンズンバン切っては投げ切っては投げ。」
でもね、と青年の笑みが深まった。映画とかでもよくあるでしょうと言うには、ちょっとした難関があったらしい。怪物が……ネズミを小型車くらいに大きくし、毛皮の代わりに鰐革でも纏わせたような甲殻の獣が道を阻んだのだ。小刀一本でどうにもならない、切れたとして肉まで刃が届くとは考えられなかった……というのは青年だけだったらしい。
「肉斬らば萌ゆ。多分そう言っててねえ。」
男は小刀で両腕を縦に裂いたという。太刀傷はすぐ蠢きだして、まくれた表皮の隙間から血が沸き立った。飛沫をあげる小さな血溜まりか、あるいはその下からか、ともかく艶やかな黒糸が……お察しの通り黒髪が……生え出したと青年は言った。
血を被ってもなお黒黒と、逆さにした朝顔の成長を早回しするように髪が伸びる。毛量が増す。
果たして怪物がが出方を悩む間に、肩まで持ち上げた手首から床に及ぶまで髪束が垂れ下がった。
遅れて飛びかかった妖物に向かって男が髪の湧いた腕を振れば、果たして陣形を組んだ槍兵のごとく、髪が自ら伸び上がり、妖物の四肢といわず頭と言わず、針山のように貫いたという。
すごいでしょう、と青年が更に身を乗り出した。例によって聞き手が身を引けば、けれどその背中が壁にぶつかってしまう。
「それで、お願いしたいんだけどさ。」
青年が申し訳なさそうに眉尻を下げる。君は手が自由だろ、と言い添えて、大きく口を開いて見せた。
「こへ、出してふんないはなあ」
薄く差し込む明かりでもなんとか分かる。男の舌にも、言われてやっと知れる程度の細い黒糸が結え付けられていた。その先は喉の奥へと垂れ下がり、重いものでも釣っているかのようにピンと張っている。
手が重くて動かないんだ、と相好を委ねて、
けれど青年が語気を強めた。
「ほんと良かったよ。
ぼくもねえ、君みたいな元気のいい人待ってたんだもの。」
笑顔のまま口が開く。
手枷で戒められた手が、ゆるゆると聞き手の指に触った。
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