射手辺の遠眼鏡(シャズベのとおめがね)
「異形と超短編」というイベントにお願いします!!ドゥーーン!!!!ってしたののフルサイズ。テーマは『珈琲』でした。
若い女性が窓辺の席に座っていた。硝子越しの雑踏と手にした携帯とに、何度も落ちつかなげに視線をさまよわせている。呼吸はひどく浅く、両手の指は赤らむほどにかたく組み合わされていて、ひどく怯えているのか、コーヒーを運んできた店主の声にすら大げさなまでに身を固くした。
「どなたかと待ち合わせでいらっしゃいますか?」
穏やかな店主の呼びかけにも、彼女の緊張が解けた様子はない。突然、失礼を致しました。そう言って頭を下げる店主に彼女も謝る。謝りながらも、けれどその視線は外を行く人々の顔のあたりに向けられていた。
「では、大変申し訳ないのですが・・・相席をお願いしてもよろしいでしょうか。」
店主の言葉も聞いているようで届いていない。それを察していただろうから狡くもあるのだが、彼女は咄嗟に頷いてしまった。店主が感謝の言葉を述べて初めて後悔したけれど、待ち続けている連絡が入ったら・・・あるいは足の疲れが少しでもとれたなら・・・すぐ立ち去るつもりだったから、と思い直して、訂正しようと立ち上がりかけた席に座り直した。
カウンター内へ戻った店主とすれちがうようにして、男が通路をすり抜けて来た。すぐそばを男が通り、よく知ってはいるけれど何かは思い出せない、熟れ腐った果物の臭気に似た残り香が鼻につく。彼女は思わず顔を上げるも、何の臭気であるかを思い出す前に異臭は挽いたコーヒーの芳香に紛れて消えていた。
「失礼」
目の前に座った男、その姿に彼女は目を奪われる。整った顔立ちをしていたからではない。そもそも顔の作りなどまるで分からなかった。背彼の肌が出ている部分は夥しい数のガーゼとテープで覆われ、その多くに血膿が滲んでいる。かろうじて見えているのは目元と口の左半分程度のもので、けれどそこにもガーゼの端からあふれた膿がこびりついているのが見えた。
思わずたじろいで、けれど、すぐ不躾だと考え直して俯く彼女の対面で、男が微かに笑う。「あなた、コーヒー占いってご存じですか」
一瞬だけ彼女の視線が持ち上がる。
「・・・いえ。」
すぐに伏せられた目を追うようにして、ガーゼと絆創膏まみれの手がテーブルクロスの上を滑り寄る。強引に視界に入り込んだ指は、彼女の手元のコーヒーカップを指し示した。
「怪しい勧誘などではありませんよ。こんな不快な男に席をお譲りいただいたんですからね、どうかそのお詫びに。ぼく、副業で占いをしているのです。コーヒーを使ってね」
卓上で組まれていた彼女の指が、逃げるように膝上へ移動する。それを捉えて笑みを深め、男は更に言葉を続けた。
「何か、否、誰かですかね、探しているのでしょう。たとえば今、お待ちの相手とか。」
俯いたまま、目が見開かれる。手は震え、ひどい息苦しさが彼女を襲っていた。
「ずいぶん遅れていらっしゃるようですが、はたしてここに来るのでしょうかね。いや、約束をすっぽかすひどいやつだと言ってるのじゃありませんよ。来られるのかな、と言いたかったのです。彼はそうできる状況にあるのかな、と。」
男がちょうど運ばれてきたコーヒーを啜る。彼の言葉が途切れてなお、女性は一言も発さなかった。目の前が真っ暗になったような錯覚に襲われて、目の前の景色は目に入っているけれど何も見えない。空白の視界の中で男の言葉だけが反芻されている。
「大丈夫です、心配することは何もありァしません。何も事故や事件と言ってるわけじゃない、電車の遅延かも知れませんし、渋滞に巻き込まれているのかも。そのうち分かりますよ。だからそれまでの時間をつぶす余興としてね、ぼくの占いなどいかがでしょう。」
コーヒー、どうせお飲みになれないでしょう?トントン、と男の指がソーサーをつついた。彼女は男に黙ってほしかった。これ以上自分の懸念を口に出してほしくない。その一心だった。
「・・・じゃあ、お願いします。」
か細い、店内に流れるクラシックにすらかき消されそうな同意である。男は口の端がガーゼの中に隠れるほどに笑みを深くして、片手を背広のポケットに潜ませた。何が詰まっているのか、金属がこすれるような音や鈴のような音、缶の中で固い物を転がすような音をたて、探している物があるらしい。ポケットの中を探りながら、けれど顔は女性に向けたままで、不快さを隠せない視線を真っ向から受けても男の言葉は止まらない。
「承りましたとも。・・・とはいえね、飲み物を用いた占いなんぞ珍しくはないんですよ。紅茶の葉っぱ占いとかコーヒー占いとか、それはもうお国の数だけざらにありますのでね。もっとも、私の占いはトルコのそれとは異なります。コーヒーを使うのが性に合ってるってだけですからね。やってることと言えば、ま、水鏡や蜂蜜酒のそれに近いでしょう。聞いたことがおありじゃございませんか?深夜にカミソリ咥えて水盆を覗く、すると運命の相手が映るなんて・・・」
女性が困ったように眉根を寄せて、カトラリーケースの中を探る。さきほど以上に曇った顔に「時代ですかねえ。」と独りごちたその時だった。女性が持ち上げた物を捉えて、男が更に破顔する。
「いけない!」
声ばかりは低く鋭く、けれど目元の笑みは隠せないままに制止する。笑い出しそうなのをこらえているような顔だったが、まだなんとか警告の体裁は保っていた。それに、その声ばかりは効いたらしい。微かに恐慌の色を帯びて泳ぐ彼女の目をとらえながら、その手が掴んだデザートスプーンをケースに押し戻す。
「錫はね、それだけはいけません。いけませんから、使うなら・・・。」
そうしてようやく目当ての物を見つけたらしい。男の手が卓上に戻る。
「ありました。さあほら、こちらで一回し。反時計回りにお願いしますよ」
男が取り出したのは金色のスプーンだった。形はコーヒーや紅茶に添えるそれと同じだ。けれど柄はやけに長くてマドラーほどもあり、柄尻の飾りも喫茶店などで出されるそれに比べて凝っていて、黒い猫目石のような輝石まで填められている。それを包んでいたのはスエードのような手触りの亜麻色の布だったが、触れた指先にぬめつくような、あるいは湿り気のようおぞましい冷たさがあった。
「ね、どうぞ。どうぞ遠慮無く」
血膿まみれの男が取り出したという嫌悪感、それ以上に感じる不穏さ、厭らしさ。手を伸ばしかけて、彼女はけれど迷ってみせる。スプーンを握るどころか包みすらはがそうとしない、そんな彼女を急かして、男が言った。
「お嬢さん、あなた心配されてらっしゃるはずだ。お待ちになってる方に何か起こるかもしれないって思っておられる。しかもどうやら、何が襲うかについて見当もついているようだ。だったらこうは思いませんか。もしあなたが待ち人さんを遠見して、その危機を脱する手立てを見つけることができたなら・・・。待ち人さんが連絡できなくとも、メールなり何なり・・・お嬢さんからのメッセージなりを見ることはできるかもしれないでしょう、ねえ?」
目は見開いて、口の端を持ち上げて、声が上擦るのさえ男は隠そうとしない。女性が彼の顔から目を背けていて、そもそも気にできてすらいないことを知っての上だ。けれど、この言葉が背を押したのだろう。女性の手が拳の形に握りこまれる。一瞬のち勢いよく手を開いて、その指がスプーンを掴んだ。腕を震わせながらもスプーンをコーヒーに沈め、中心に左回りの渦を作る。
「・・・混ぜました。」
スプーンをカップの中に立てたまま、女性が顔を上げる。か細い声とは裏腹に、睨んでいるともとれるような視線が男を射貫いた。
「よろしゅうございます。じゃ、それはぼくが」
ソーサーとスプーンをそれぞれ押さえ、男が手元へ引き寄せる。そうして右、左とかき回す手を眺めながら、ふと彼女が小さく訊ねた。
「・・・あの、どうしてスズはだめなんですか」
男の手は止まらない。視線だけを女性に向け、吐息ほどまで声を落として囁き返す。
「水面の双方が繋がるんですよ」
「少しお待ちくださいね。」とコーヒーの水面に目を落としつつ、男は言葉を続けた。手持ちぶさたの右手はソーサーから離し、薬指と人差し指で軽やかに机をつついている。
「互いに見、触れられるようになるということです。錫の籠で物を渡したり、錫の矢で憎い相手を射たりなんて・・・そんな話もあるという噂で。・・・失礼、店主さんが」
女性の奥に視線をやって、男が軽く会釈を返した。席を立ちながらコーヒーに視線を戻し、男の目がまた喜色に歪む。異形のスプーンは用が済んだらしく、水面から引き上げられ、軽くナプキンで拭ってソーサーに置かれた。立ったまま、男がスプーンごとコーヒーを押し戻す。
「もう見えますので、あとはご自由に。このスプーンで水面を掻けば引き寄せた方に映像が動きますからね」
男は水面を見ようともせず、足早に横の通路に踏み込んだ。彼女の席を大股で通り過ぎようとして、ふと、その足が止まる。
「決して、錫だけは使わないでくださいよ。」
それだけ言い残して男は今度こそ席を離れた。
見下ろした先で確かにセピアの水面は像を結んでいた。小さな液晶を通して見るのと変わらないほど鮮明に、壁を背にして足を投げ出し、座り込んで俯く男性の姿が見える。待ち人の名を叫びかけて、けれど声は出ない。嗚咽に似た荒い呼気が漏れるばかりだった。男性の顔は見えていないし服装もよくあるスーツだから、待ち人の姿と信じないこともできるだろう。自分が見ようと望んだものが『いま現在の待ち人の姿』であっても、彼ではない証拠を求めて彼女はカップに顔を近付け、男から借りたスプーンで水面を掻く。右へ動かせば廊下とその先の玄関が、左へ動かせば納戸が映る。納戸は開け放たれ、荒らされたのか急いで荷造りしたのか、吊られた衣服がいくつも床に散らばっていた。見慣れた間取り、覚えのある衣服からはなおも目をそらして、さらに彼女はスプーンを動かし続ける。
右へ、さらに右へ、ちょうど座り込んだ男性の対面まで水面を動かして、彼女は弾かれるように椅子から立ち上がった。椅子が跳ねた音が響く。レジ横で談笑していた店主とシャズベはともかく、店外の通行者にも聞こえていたのだろう。ガラス越しにすら視線を集めながら、けれど反応は返さない、気付くことすらできていないのだ。血の気の引いた手で荷物籠に置いた鞄を取ろうと腰を落とし、しかし、動きが止まった。
立ち上がった時に落としたのだろう、転がる鈍色のスプーンを前にして、気取られないよう緩慢に振り返る。二人の目が自分に向いていないことをみとめて、彼女は床のスプーンを握り締めた。
「ごめんなさい、お金これで、レシートいりません。」
伝票と代金とを置き、応えを待たずに店を出る。雑踏へ駆け込む彼女を見送って、二人はテーブルに視線を向けた。卓上の様子に特に変わりはない。金のスプーンはソーサーに置かれ、鈍色の方も紙ナフキンの上に残されている。
「びびっちゃったかあ。」
頭を抱えて男がカウンターに突っ伏した。犬が唸るような恨み言を募らせる男を見下ろして、店主が笑う。
「ツケのお支払いは三倍ですね。」
「でもさあ。この賭け決めたの結構前じゃないですか、まさかその時にこんな厄ネタ来るなんて思わないでしょう。ぼくだって分かってたら、ねえ?」
「悪いけど、運も含めて賭けですからね。」
持ち合わせが無いと騒ぐ男を上機嫌で一蹴しながら彼女のいたテーブルに向かい、その手前で足が止まった。
「シャズベくん。」
「機嫌が直りますよ。」と含み笑い混じりの声で店主が呼ぶ。「きっと喜ぶものです。」「どんでん返しですよ。」そこまで言われてやっと男が、シャズベが腰を上げる。隠しもしない渋面でゆっくり歩み寄って、けれど上げたのは快哉だった。
カップにはマシュマロのような物が浮いていた。白く、けれど水を吸いはせずに光沢を放つそれを店主のスプーンが転がせば、濁りはじめた藍色の光彩と視線が合う。コーヒーから掬い上げれば、沈んでいた視神経が糸を引いた。
「かれにとっても“とんだ厄ネタ”だったんですねえ」
「ぼくにとっては何よりですけれど。でも、ま、じゃじゃ馬でいられるのも長くは、ねえ」
彼女のこの後に思いを馳せてか、単にツケの支払いが延びたからか、歯を剥き出してシャズベが笑う。「ねえ、マスター。」猫なで声を送って、シャズベがコーヒーを指差した。
「大詰め、見たくありません?」
店主は目で笑い返す。
閉店準備を、と返すより早く、シャズベの手がカーテンを引いた。
Comments