小さな女の子が漢字で名前を書いていた。難しい字をきれいに書くものだと褒めれば、昔から漢字で書いていると言う。なんでも、ご両親に強く言いつけられているのだとか。
「お手本あるから、忘れても大丈夫なんだよ」
そうして見せてもらったハンカチやお財布には、なるほど、確かに大人の字で彼女の名前があった。小山桃子。
「コヤマモモコさんでいいのかな」
「ううん、トウコ」
参加者名簿をもう一度見直す。あるのはコヤマモモコの氏名だけだが、確認にと彼女に訊いた住所は名簿のものと一致している。
今日の映写会はこの図書館や、学校でも申し込みを受けていた。その時に行き違いでもあったのだろうと察して、"コヤマモモコ"の席の札を渡す。桃子嬢はそれを受け取り、もう片手で人形を抱き直した。署名の間、受付デスクに腰掛けさせていた人形だ。体躯は市販の着せ替え人形ほどだが、狩衣とか直衣とか、そんな名称の衣類を着込んでいるからだいぶ大きなものに見える。腰のところから稼働するところを見るに、三つ折れ人形だろうか。おもちゃには見えないほど上品な様相だが、濃い紺色に黒い模様の衣は鮮やかで真新しい。また、彼女が与えたのか、アクセサリー代わりのビーズの輪が襷掛けに掛かっている。
「お洒落さんだねえ」
そうこぼせば、はにかむ桃子嬢が人形の手をとり、掲げさせた袖をはたはた揺らした。
「夜、もっとおしゃれさんだよ」
桃子嬢が人形の顔を覗き込む。昨日は萌葱に梅の花弁模様の衣装だった、それに合わせて侍女の装束を花山吹の襲で揃えてくれたのだと誇らしげに語る。そして自分は裏山吹の襲で着せてもらったと。夢の話だろうな、と微笑ましく聞いていれば、桃子嬢がふと、受付リストに目を落とした。
「ノブくんもね、よく間違うんだよ。いつも最初に、コヤマモモコちゃんですか、って訊くの。」
違うと言っても、いつも夢の始まりには何度か同じことを聞かれる。どんな字を書くかと食い下がられることもあるそうだ。
「たまに意地悪もするよ。甘酒とかあられはね、コヤマモモコちゃんのものだから、コヤマトウコちゃんにはあげられませんって言うの。」
でも泣き真似するとくれるよ、と笑うあたり、桃子嬢は案外したたかであるらしい。
「ノブくんも泣いちゃうからあんまりやんないよ」
それは可哀想だ、と相槌を打つ。それなら、と私は続けた。
「その時だけでも、コヤマモモコですって言っちゃえばいいんじゃないかな」
「だめだよ!」
桃子嬢が血相を変える。おばあちゃんから言われていると、彼女の声が上擦った。他人のの名前を使ってはいけない、という教育方針にごもっともだと恥じて、けれど、次の言葉で背筋が凍った。ノブくんにだけは言っちゃだめなんだって。
「お雛様にされちゃうから」
どういうことかと訊く前に、映写室から母親らしい女性が桃子嬢を呼んだ。もう五分もしないうちに始まるらしい。元気よく別れを告げる桃子嬢に手を振りかえして、"襲"なんて、小学校でやるのだろうかとふと思った。
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やはり我が物にならないのだと、留紺の直衣が涙に濡れた。溶け落ちた紅で目元も頬も、まして手指までどろどろに汚すのは、平時であれば凛と見えたであろう細面の青年である。階段箪笥に背を預けるようにして泣き濡れる彼を、横で片膝を立てた青年が見守っていた。狐めいた目を細面の彼に向けて、所在なさげに胸元で手拭いを揉んでいる。狐に似た彼が振り向けば、奥の小上がり、店主の家屋へ続く板張りのそこへ、背広に羽織り姿の店主が降りてきていた。老婆が足元の座布団は退けて、床へ膝をつく。
「面倒見がいいものですね」
面倒そうなのを隠しもせず、皺に囲んだ目で土間の二人を睥睨する。片膝立ちで腰を下ろしたその傍に脇差を控えさせ、片手を柄に添えた。
「ひとさらい座でしたか。存じてはおりましたけれど、まさかこんな、場末の骨董屋までご足労いただくとは思いませんで。おもてなしの用意もないのですよ」
なればこそ、疾く帰れ。言外に強くその意思を込めれば、直衣の青年の嗚咽が一際激しくなった。あれのせいだ、あの嫗の悪知恵で得られぬ、と途切れ途切れに青年が訴える。対して狐めいた青年は
「それは貴方がこそ破らなければ」
そう言って青年の肩を撫でた。良い案はいくらでもございます、と慰めてから、店主に向き直る。場末とはご謙遜ですね。
「籠中囀を並べておきながら、随分慎み深くていらっしゃる。……私も、そうそうお邪魔する気は無かったのですよ。彼のように、異類の恋に迷う方さえおいででなければね。我ら人攫い座、揃ってお節介な性分なのです」
ご存知の通りに、と立ち上がれば、今度は青年が店主を見下ろした。刀を向ける場所を探る視線が突き刺さる。けれど青年に臆した様子は無い。
「娘さん、ではないですね。……お孫さんですか。こちらの御仁がそのお方を欲するなら、我らはあらゆる策を授けます。如何様にもお助けして、まかり間違っても引き離されることなど赦しは致しませんよ。取り急ぎ、名でも聞き出せるよう致しましょうか。」
守るのはどうぞ、あなた方にできるのなら。今度は青年が強くそう匂わせた。
「では、お邪魔さまでございました」
瞬きの間に、青年たちの姿がかき消える。あとには揉みくちゃの手拭いと、化粧の滲んだ三折れ人形だけが土間に転がっていた。
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