「鳥を討つのは、あたくしどもの役目でね」
十生が最初に生きていたのは、貴族の世の終わり、武士の世の黎明期だった。
とはいえ、もののふどもも立派なのは名前だけで、のさばるのは野盗の上等になったようなものばかり。はるか東国は言わずもがな、都近くに住む武士もまた、殆どは荒くれ者だった。十生と、十生の主が仕えるのも、ほんの少し上品なだけの同類で。
「鳥と言っても、隠語というやつで。探りに来た間者やら、入り込んだ密通者やら、はたまた援軍を呼ぶ切り札やら。そういうやつらの伝令をね、なんにも伝えられないよう、消してしまうのですな」
親王を旗印に蜂起した武士たちがいたのだ。十生の主の、そのまた主人の、それより上の主人が大きな権威を誇ったのが気に入らなかったらしい。彼らが東国に走らせた”鳥”を潰し、一部の援軍を絶ったのも十生らだった。
結局その武士たちは敗れ、粛清されたという。しかし、彼らは火付け役となった。
東国の武士が決起し、十生の主の仕える一派を見事追い落としたのだ。もはや主も部下もなく、誰もが散り散りに逃げた。
「もともと、戦うお仕事はしてませんからなあ、攻められてはどうしようもありませんや。せいぜいが、逃げ落ちる先を知られないよう、あたくしどもを見つけちまった”鳥”を帰さないぐらいでね。這々の体で落ち延びました」
そのあとの十生の主のそのまた主たちのことは知らない。一族郎等どこぞの海で果てたと聞いたが、旅芸人に身をやつした十生らには関係のない話。十生の主は、十生らを意のままに操る、ささがに使いとなっていた。
あちらの村、こちらの市と、まわっては路銀を稼ぎ、稼いではまた旅に戻った。十生らがいれば獣も木の実も採れたはずで、隠者のように暮らすこともできただろう。それでも十生の主が市井に戻ったのは、かつての主人を探していたからかもしれない、というのは今更やっと思うことだ。
「ささがに使い、なんて、見る人が見れば分かるものでございましょう。大いくさが語り草になる頃、ばれてしまったのですよ」
ある市での興行のあと、十生らは地主の館へ招かれた。ささがに使いの芸が気に入った、そう言って招く地主は、満面の笑みを浮かべていた。地主の館で芸をしたのち、どんなやり取りがあったかは分からない。十生は主人でない人の言語には疎く、住み家の筒はどうしてか堅く封をされてしまっていたのだ。
ただ、筒に伝わる鼓動が消えて、主人が斃れたことばかりを知った。
「あたくしどもは思いましたよ。よくも、と。でも、出られないでしょう。毒牙も糸も、それじゃあ意味がありませんからね、待ちました。怖いもの見たさの愚か者が、いつかふたを開けると知ってましたから」
十生らは生き延びた。弱いものから身を捧げ、主人殺しに一矢報いるだけの力をためた。一頭消え、二頭消え、最後に、十生ばかりが残った。同胞の内腑を啜り、足も皮も溶かして飲み込んでしまえば食うところは最早無い。結局、蓋が空いたのは、十生が自らの足を二対平らげた後だった。
「あたくしは飛び出しましたよ。空いた隙間から見えた目がね、なんとも地主によく似てたんです。こう、毒牙を立てて、殺せた、そう思ったのでございますが」
十生は唐突に引き剥がされた。腹を握り潰され、床に叩きつけられた所で見たのは、憎き地主の姿であった。なぜ、と視線を泳がせれば、地主の腕の中に痙攣する子どもがいる。白目を剥き、泡を吹いておののく姿は覚えがあった、”鳥”が死ぬ時の姿だ。十生は悔やんだ。悔やんだが、どうしようも無い。二対の足には飛び上がるだけの力はなく、飛びかかったところで、牙に毒は残っていない。もう一匹いれば違っただろう。十生が勇んで失敗したところで、筒に残ったかたわれが地主を仕留めたに違いない。もう一匹いれば。けれど、一匹残らず十生の腹に収まり、今まさに床に溢れてしまっていた。
「この日、この時まで忘れておりましたよ。あたくしどもはたかが蜘蛛でした、たかが虫でした。強い強いと驕っていられたのは、ご主人様がいてこそのものだったんでございます」
そう思ったからこそ、怨嗟はより大きく膨れ上がったのだろう。十生と、十生の収めた同胞のぶんの怨みは地主に向かう。否、とうてい地主だけでは収まらなかった。邪魔をしたその子ども、止めなかったその母親、かつてささがに使いを助けなかった使用人たち…怨みの分だけ累は及ぶ。最期、断末魔に、十生は呪いを乗せた。
「『おぼえておいで、あたくしは、あたくしどもは、おまえを怨むよ。たとえ十度も生まれなおしたって、おまえと、おまえの縁者を、一人残らず滅ぼすよ』」
蜘蛛の発した、虫の言葉だ。人である地主には届かない。けれど呪いは届いたようだった。地主が慄くのを捉え、十生は最初の生を終えた。
「ええ、死にましたとも。蜘蛛には痛覚がないのが幸い、無残な最期でございましたねえ。でもね、これでおしまいじゃないんでございますよ。あたくしは、あたくしのまま生まれなおしました」
十生が十生であると気づいたとき、十生は人間の幼な子になっていた。地主の村落に住む、小作人の小さな息子だ。地主は今も健在で、十生の主人と十生が死んでから、そう経っていないようだった。十生は早速山に分け入り、覚えていた毒草でもって井戸を侵した。忽ちのうちに、使用人の子や年かさのものが死んだ。幼な子の十生は何度か地主の邸内で見咎められたが、まさか、と、毒を撒いたと疑われることはずいぶんなかった。
「ですがね、ずいぶん前生では功徳を積んでいらしたようで、地主一家のまあ無事なこと。死ぬのは使用人、小作人ばかりでね。それどころか、あたくしは地主に手を出す前に、現行犯で見つかってしまって。ただね、あの顔ったらありませんよ。『あたくしをおぼえておいでか』と、訊いたときの、顔!」
今生の親とともに引き出されたとき、幼な子は十生であると名乗った。地主は顔を強張らせ、即座に太刀を抜いた。聞いていたのだ、覚えていたのだ、十生の呪いを。次はおまえの妻だ、そう笑った十生の首は、間も無く落とされた。十生の二度目の生は、ここで幕を閉じる。
「一番殺したのは、このときでございましょうね。ですが一番口惜しいのもやはりこのときで、もし来世がなかったら、首が落ちる時考えたのは、そればかりでございました」
十生の心配は杞憂だった。再び物心がつくようになって、気付くと十生は黒茶まだらの雄犬であった。毒は無い、器用な手足も無い、牙と爪ばかりで、蜘蛛であった頃は一番の餌食と、頭から見くびっていた存在だった。
だから体に慣れ、人を殺せるだけのものになるのに、ずいぶん時間がかかった。その過程で、ずいぶん群れを潰した気がする。けれど獣には十生の本質が分かっていたようで、野犬どもをまとめられる力量を示していたにもかかわらず、十生に従うものはなかった。
「すこし遠くに生まれたようでね、あたくしはいくらか長旅をいたしました。餌をくれるっていうんで、行商にくっついてね。ご主人様との旅も思い出されて、懐かしさが募るほど、怨みも膨らむ寸法で。そうして月が一巡りした頃でしたっけ、地主の邸に帰ってまいりました」
犬の鼻、犬の耳は優れたものだった。幼な子であった時の鮮明な視界はなくなっていたが、匂いと鼓動が家人の行方を教えてくれる。使い慣れた牙も頼もしく、断末魔が上がるより十生が喉笛を噛み切る方が速いほど。屋敷の離れから手をつけて順繰りに、いくらか老いた地主の妻と、おそらく孫か玄孫であろう幼子の首を噛みちぎり、けれど、その背を太刀が両断した。
「蜘蛛の時より、死ぬのは早かったと思います。斬り伏せられてね、一瞬でしたよ。このときばかりは誰に斬られたのかも知らないんですからね。そうして次に自分を再び認めた時、あたくしはまた虫になっていたのです。」
蝶、蜂、蝉、田亀に百足、そして蜘蛛。
蜘蛛といっても蠅取りの大した毒も無いもので、どの生においても地主の家を見るより先に虫や鳥だのに食われて死んだ。
季節ごとに生まれ変わり、百足になった時には危うく妄執を手放しかけた。けれど種は違えども蜘蛛になり、四対の手脚を動かせば。
「思い出しましたとも。憎き地主よ、縁者よと怨みが湧いて、それを糧に食を断ちました。人に届く牙もない地虫となれば、その邸を見に行く気も起こりませんでしたとも。それよりは次の生、だめならまた次を望もうと……。そうして次はね、樹になっておりました。」
根元に、かつて自分であった蜘蛛のかけらが感じられた。地主を仕留められなかった妄念が、死体から若木へ乗り移ったのかもしれない。
樹になってから枯れるまで、ずいぶん長くかかった。空には幾度も月を見送り、足元に花々が何度も咲いては枯れてを繰り返した。
その間大きな争乱が幾つかあったが、結局十生が絶えるには、巣食った虫どもが中身を空っぽにしてしまうまで、たっぷり何百年かはかかったはずだ。
「いったい樹に何ができましょうね。いや、艶姿だけで首を括らせる桜があるほどです、あたくしもできたのかもしれませんが……とはいえ、その間は本当に何もできなかった。息子か孫か知りませんが、血筋の若いのが気紛れに法要なんかあげたりしてね、あたくしの邪念にも気付かない生臭坊主に『これで悪霊も鎮まるでしょう』なんて高い金子を渡すんですよ。これが可笑しいやら憎らしいやら。」
果たして、十生にその先はあった。滴りから鍾乳石が成るように、あるいは腐肉に虫が湧くようにと言うべきか。外見だけは立派な大樹のまま残った樹皮を繭のように押し破り、今の姿となった十生がうろから這い出した。はなから持っていた二振りの鈍刀と高下駄で二対の脚の蜘蛛のようにふらつきながら、300年ぶりの二足歩行をなんとかこなして、真っ暗な夜闇のなかを木立に消えた。
これが今の十生である。妖怪変化と言うべきそれが、たどりついた最後の体であるらしかった。今度の生が生きたものでなかったのは、長らくなにもできず、無念のまま溜め込まれた邪念が形をなしたがゆえかもしれない。
「生まれた時から大人の体なぞ、まあなんて耐え難いことでしょうね。鈍刀と高下駄でかつての蜘蛛足みたく動けたのは幸いでした。なぜって萎えたような手足なのに図体はでかくて見つかりやすいし、常に腹を空かして弱ってるのに、猟師や落武者なんかが周りを蟻の群れみたいに通る。やつらを返り討つのにどれだけひやひやしたことか。」
ともあれ、十生は今度の体もうまく扱うようになった。鈍刀の扱いに長じただけでなく、最初の体のように毒を吐くのもお手の物。そうして、さあ今度こそ地主の血を絶やしてやろう、と山を降りれば、果たして。
「こんなことがあってたまりましょうや。」
地主の家はそこここから青々と草木を生い茂らせていた。屋根や……薪にしたのだろうか、畳はおろか障子やふすますら持ち去られた……屋内もその有様である。立派な屋敷があったのだろうとは思えるが、けれど骨組みが残るばかりで。
「どなたか、どなたか、とね」
腐っていたがゆえに残された床板を踏み抜き、千萱を踏み荒らし、土蔵も厠もすべて探して回った。誰もいない。長らく誰かがいた気配すらない。山を通る人を捕らえて聞けば、タイコウドノと柴田の戦を期に、地主は遠縁を頼ってここを捨てたという。十生が立ち枯れた頃の著名な名前を問えば、100年も昔の武将ではないかと旅人に笑われた。
「遠縁を頼ったのなら、それを目指すというのも良かったでしょう。遠いとはいえ縁は縁、あたくしの怨みも及んで然るべきと言えませんか。
……けれどね、あたくしは思ってしまった。百足の時に、一度怨みを手放したでしょう。もしかしてそこで終わるべきだったのじゃないかしら。けれどあたくしが持ち直したものだから、山神だか仏様だか存じませんが、そういうお方が駄目押しであたくしを樹にしたんです。もうここまでにしろ、発端を知らぬ末代まで累を及ぼすな、と、どなたか仰ってるんじゃないかとね。もちろん妄想でございますよ、誰ぞに言われたわけでは無いのですが。」
しかし、それで脚が動かなくなってしまった。
ならば待とうと決めたわけでもなければ、身の振りを考えようと腰を据えたわけでもない。床の取り払われた居間にへたりこんで、日に日に丈を伸ばす芒に埋もれるしかなかったのである。瞼ばかりは開けて、けれど茂った芒もあばらやも、目に入ってなどいなかった。
「どれほどか、と言われれば、どうでしょうね。芒が枯れた覚えはありませんし、案外十日二十日の話だったやも知れません。けれどそう遠からず、このあばらやに立ち寄った方がいたのです。」
後に聞けば、随分声をかけたり揺すったりされていたという。けれど十生が覚えているのは、とんでもない刺激臭とともに目に入った顔からだった。
どうにも正気を失っていたようだから、気付けの酢を嗅がせてみてはと……。よく日に焼けた顔の男はそう詫びた。何として生きた頃も知らない臭いだったから、怒りや敵意より先に驚愕が勝る。まして、どこか辛いところは無いか、肩は重くないか……などと謝罪と気遣いとを捲し立てられれば、それに応えるので精一杯だ。虚脱から戻ったばかりだから、というのもあったかもしれない。
「ヤチどの。数字の八に、蜘蛛の蜘と書くのだそうです。髪こそざんばらでございましたが、旅のお坊様だと伺いました。一夜の宿をと庇を借りて、ふふふ、あたくしを木霊か魑魅と見たのだとか。」
旅慣れるほど路辺に身を置くゆえか、八蜘は豪胆な性分だった。十生を正気づかせたのだって、幻や木霊ではないと見定めるや、ならば魅入られた方の旅人かと助けに入ったからである。罠ならどうしたと十生が問えば、
「『荒療治になりましょう。』なんて仰って杖をね、こう。」
杖と見えたのは槍の穂先を仕込んだ棒で、白木の鞘を嵌めていた。向いた刀剣を花に変えられる身であれば不要なもので、と言うのである。
そう言われれば十生もわずかに興味が湧いた。
「なら、と思いましてね。訊いたのですよ。お前があたくしの仇としたらどうするね、縊られる前に突き殺すかい、と。」
目の前に人が立ち、虚脱の中から怨みが沸き始めていた。水が染み出すような緩やかさゆえ、殺意より先に悪戯心……というには些か攻撃的な……と、それから苛立ち混じりの意地悪さが先に牙を剥いたのだ。
八蜘は、けれど槍を収めた。縊るがよろしかろう、と言うのである。
それで今生の妄執が絶えるなら、あとは功徳を積むばかり。その一助となるならよいけれど、その旨をお伝えしたいゆえ、一声掛けてからにしていただきたい……。
「何をと思いますか。思いましょうな。んふふ、あたくしもでした。」
これでもう、本当に毒気が抜かれてしまった。対する八蜘はといえば、では飯に、など言い出して、芒を火口に早くも湯を沸かしだしている。果たして十生はその後の固辞も間に合わず、溶き入れられた糖蜜の香りにも負けて、粟粥をご馳走にまでなってしまった。
「粥。粟粥など。粟粥ですよ。冷えた屍肉に慣れた口に、蓮華の蜜の染みること。なんと言いましょうか……今で言うと……甘酒に近いんでしょうかね。栗なども砕いて入れまして、それがゆるゆる崩れるまでは、まだ食べごろでないからと止められました。」
十生の喉がごくりと動いた。
とろりとして餡か飴湯のようになった粟粥を食べて、その夜は眠ったのだそうだ。この日に限っては夜半も静かなもので、敗残兵はおろか、その死霊すらうろつく気配が無かった。
「その翌朝ですよ。」
あなた、ねえあなた、と八蜘が胸を叩くので目が覚めた。覚めきらない半目で睨めど、八蜘は知ってか知らずか亀のような穏やかな顔で、あなたお名前は、と訊くのである。もう発つから、その前に名前だけは知りたかった、と。
「寝ぼけてたのもあるでしょうし、何よりは意地悪からでしょうね。付けてない、そんなものは無い、などと言ってしまったのですよ。」
そうして寝返りをうって背を向ける。それを、八蜘が肩を掴んでごろりと自分の方に向け直した。
「そんなことはないでしょう、と仰るんですな。草木にも名があるのにあなたばかりがそんなこと、と。これがあの方の不思議なところでしてね、無い、いや在るでしょう、を何遍か繰り返すうちに、あたくしの素性を端から端まで聞き出してしまった。」
どうやって聞き出されたかは十生にもとんと憶えがない。それどころか、語る間に八蜘が相槌や茶化しをいれた憶えもないのだ。芒の荒屋に座り込んだところまで時間が追いついて、そこでようやく八蜘が。
「そうでしたか、と仰った。」
十生の鈍刀と八蜘の槍とが、二人のちょうど間に置かれた。訝しげな十生の前で着物の前をはだけさせて、八蜘が言うのである。ただいま帰りました。
「二の句が告げないとはこの事ですよ。」
八蜘はやはり亀のような顔で、戻ってまいりました、と言う。詳しく言わずとも十生にはそうと知れた。遠くとも縁は縁、十生が諦めようと手放そうと、繋がってしまうのだ。相見えた時の何故とも知れない苛立ちから、そうではないか、とは思っていたが、まさか。
「最後の一人だそうですよ。あたくしが呪ったあの地主、どうにか長らえて後妻と子を成したようですが、その後胤のことごとくが早世した。あたくしの呪いだと、残った子を次々仏門に送り込んで、それでまた後継ぎが減るでしょう。八蜘どのの兄弟姉妹も殆どが寺に入り、そこでも弱って死んだとか。……あたくしがやったわけじゃない。巡り合わせが悪かった、そう思いたい限りでございます。」
訥々と八蜘がそう語って、頭を下げた。わたくしで終わりにしてくださいと三つ指をつき、首を差し出すのだ。あたしがやったんじゃない、と絞り出すのが精一杯だった。
「その後は小っ恥ずかしいので、あんまり話したくはないんですかね。」
もうしない、御免だよ、と憶えていないようなことを十生がまくしたてて、果たして八蜘は陽が落ちる頃に顔を上げた。けれどやはり、郷里に帰るとは言いつつ、どこかで入水などしそうな顔であった。十生が案じたのは言うまでもない。山に峠に、これ見よがしにその後ろを着いていくしかなかった。郷里の寺へ送り届けたところで、寺とは名ばかりの姥捨山である。夏は日差しが、冬は北風が猛威を振るうだろうことは想像に容易く、それを修繕できそうな若い男だって、八蜘の他には二、三人、これまた顔色の悪いものがいるばかりであった。これは健やかな若者でも三、四年で体を壊しもするだろうよ、と十生の額に青筋が浮かぶ。自分で寝起きの場所を選べる旅中の八蜘のほうが、穴だらけ黴だらけの僧房で寝起きするよりましであったろう。戻った八蜘について来た十生、否、その頃はまだ、ただの名無しの高下駄の妖怪変化である。
「親の因果が子に報い、こいつがあたくしを大往生させるッて言うから取り憑いて来てやったんだよ……ですっけね。八蜘どのも……ああ、終ぞ聞けませんでしたが、咄嗟に、これは細蟹十生で自分がこれの仇だ……と、あたくしを紹介してくれまして。ええ、まったく、いつ、どうして思いついた名なのか。」
とはいえ、魂消えるとはこのことで、うっかり往生しかけた老体を八蜘に並んで介抱しながら、十生はこの荒れ寺の惨状と身の振りに頭を抱えた。けれど、行うは易しと言うもので。
「長じても蜘蛛というべきでしょうかね。大工仕事の真似事でもなんとかなるもので、数年のちにはまあ人が暮らせるだけのものにはなっておりました。ご老体もあたくしを見て往生しかけることはなくなって、八蜘どのもその頃には持ち直していましたが、いやはや。」
これなら捨て置いても問題ないだろう、と思う自分の脚の方が止まってしまう。山伝いにどこぞへ消えようとするたび、夕刻には僧房に帰り来ていた。どれほど尾根を越えても、風伝いに呼ぶ声がすれば踵を返して馳せ帰ってしまうのだ。
「あたくしのほうがどこへも行けなくなっておりましてね、結局そのまま……五十年、否、一番小さいのが爺になるまでですから、七十年はおりましたか。」
果たして、十生が寺を発てたのは、最後の小僧が長じて白い髭を生やし、老いた彼を案じた他院の住職がその身を引き取った後のことだ。その頃には十生も鈍刀に頼らない二足歩行を体得していたから、概ね小僧見習いのような顔で見送ることができた。
「その後ですか。今とあまり変わりは致しませんよ。あっちこっちへふらふら、居を変え仕事も取っ替え引っ替え……こんな風に用心棒めいたことをしたりね。」
机の上で脚をぶらつかせ、十生が指を組み替える。聞き手は虜囚とはいえ手鎖一つ無く……元は付いていたのだが、十生以外の見張りがいなくなるや、早々に外されてしまった……両掌で冷え始めた茶碗を包んでいた。
十生の向かいの壁際で、やかんが湯気を吐きはじめる。ちょっとお待ちをね、と机から飛び降りて、高下駄ならぬピンヒールの靴音も高らかに、お茶のお代わりと各種粉末飲料を手に十生が行って戻って来た。それを受け取りながら、聞き手がふと訊ねてみる。
「ご主人様に。冗談を言っちゃいけませんよ、会いたいわけがない。あたくしのことが分からなければまだよろしい、分かってしまったら、どうです、こんな醜くなった姿なんて見せれたものじゃございません。小さな蜘蛛であったほうがどれほど可愛らしく……まあ、そうあなたが思わぬまでも、自然の造形というものであったでしょう。」
ですがね、と十生が口籠る。瞬き二つ三つぶん考え込んで、けれどまた口元が弧を描いた。
「いいえ、最初から、この化生の身であれていたら、とは思いませんよ。そりゃあこれほど強ければ、ご主人様の身を損ねることはなかったでしょう。でも、この姿ではね。」
さて、ここまでです。十生が急須を机に置いて、代わりに立てかけていた大小の棒を手に取った。ゆるく弧を描くそれこそ、話に出た二振りの鈍刀ではなかったか。
「あらやだ。」
ちょっとお下がりくださいな、と聞き手はソファーの陰へ背を押されて、差し出された座布団に腰を下ろすことになる。
鈍刀を抜いたその背中越し、恐る恐る頭を覗かせれば。
「借金取りです、こんにちは!」
朗らかな挨拶とともに扉を蹴破り、なよやかな黒髪の青年が姿を見せる。対する十生も笑顔で返し、
「ごきげんよう、用心棒です。」
と、大小の鈍刀を振りかぶった。
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