騎士隊長グリゾディアブラ
昔、姫君を喪った国がある。
森の大穴の蜘蛛に魅入られたのだ。
大穴の蜘蛛は貪欲で、食事や娯楽、愛妾にまでも小国の宮廷ほどの価値を求めた。
それゆえ森や近隣の国々を襲うことも多く、
膂力、糸、爪、牙、そして毒のゆえに、所望されたのが家畜や衣服、あるいは人なれども、差し出さずに退けることはできなかった。
大穴から主人が消えた後、穴底からは奪われたものとその残骸が見つかった。そして、奪い返そうと挑んだものたちの手にした武具も。
略奪品の多くは持ち主やその家族に返されたが、大蜘蛛に挑んだ者の武具はといえば、勇気の象徴として王国の手に渡った。
それらは白淵騎士団の象徴とされ、旗に、あるいは将官が式典の際に身にまとう外套にその姿を残している。
「正面は撹乱だ。側面と地下の隊が本命と忘れるなよ。」
巨大な船倉を背に、黒い鎧の女が言った。凛とした、けれど低く落ち着いた声に兵士らの背筋が伸びる、剣の柄を握る力が強くなる。その様子を捉え、女の目が三対とも誇らしげに細まった。
大盾隊、と呼ばれた盾を構える兵士らを前列に、槍兵を中列へ、弓兵と剣士を後列へ備えさせ、女が船倉の大扉の正面に立つ。
「白淵騎士団はアメリア隊隊長、ゾディア・ディアブラである!船の持ち主に御目通り願いたい!」
港だけでなく卸の市場にも届いたのではあるまいか。大音声は否応なく人目を引き、遠巻きに見守る観衆がさあ開戦だと沸き立った。応じるように船倉の窓や戸が開き、矢玉が雨霰と降り注ぐ。けれど大盾隊が矢を防ぎ、片や騎士隊長はといえば手にした鞭……扱いがそうであるというだけで、その太さと言ったら大人の腕ほどもある縄のような……の二振り、三振りで自身を襲ったものを受け流した。長い白髪を孔雀の尾のようにたなびかせ、騎士隊長が返す鞭の一振りで船倉の扉を打ち鳴らす。良かろう、と孔雀が吼えた。
「我ら白淵騎士団への攻撃は王国へ歯向かうということだ。構わないとも。我々から逆賊の顔を拝みに推参しようじゃないか!」
騎士隊長が横へ避ければ、大楯隊の一部が前衛を離れた。盾を破城槌のごとく叩きつけ、船倉の扉を破る。打ち崩し、押し開いたその隙間から騎士団が雪崩れ込んだ。
そこに壁が立ち塞がる。
巨躯の男。けれど、それだけの表現で収まるものではないだろう。騎士団が目にしたのは大鎧の剣士ではあるが、それも大人の男より背丈が高く、手足それぞれに太った子どもをしがみつかせているような筋肉を備えた存在だった。否、大鎧というのも見間違えであり、実のところは鋼の防具と見間違えるほどの硬い筋肉なのである。
あと二対も腕があったなら、誰かしらは彼の大蜘蛛だと言ったのではなかろうか。その怪剣士に向き直り、騎士隊長が鞭を振る。風を切るというには野太い、竜の唸り声めいた音が剣士を威圧した。
「弓の黒糸隊のみ残れ。他のものは奥へ、目的を忘れるな!」
もう一度鞭が振るわれ、落雷にも似た音が響く。それを激として騎士達が我に返った。自身の横を駆け抜けていく騎士たちに戦士が迫るが、騎士隊長の鞭が許さない。ならば、と絡みついた縄ごと彼女を引きずろうと戦士が腕に力を込めた。しかし。
「大蜘蛛の末裔を侮ったな。」
戦士の体が浮き上がる。引きずられたのは彼の方であったのだ。受け身を取る間も無く床に叩きつけられ、戦士が目を白黒させる。
その眼前で、騎士隊長と弓兵たちが剣を抜いた。
「末姫様は三本しか腕がございませんし、姉姫様や兄王子様がた、王様や王妃様などなんて二本のみしか。じいやはこのことを考えるとなんとご不便なお体かと、涙が止まらないのでございます。」
よよよ、と泣き真似をする四本腕の道化の髪を引っ張って、三本腕の姫がむくれてみせた。四本あっても同じよ、袖が多くて大変だわ、と言い負かした者の得意げな顔で彼を見上げる。しかし、道化の方はそれも見越していたのだろう。
「なんと、そんな、全く違いますとも!」
このように。そう言うが早いか、道化の背中側から生えた腕が姫君を抱え上げる。親子のするお馬さんごっこの要領で彼女を背に抱え、空いた三対の手足で這い回ってみせたのだ。不揃いな手足ながら器用にも速く動くし、乗る分にはちょうどいい揺れ方をする。きゃあと楽しげな悲鳴をあげ、姫君が道化の背にしがみついた。
彼らがいるのは王宮の庭園である。生垣の迷宮に踏み込んだ先、中継地点の休憩所として開けた広場の芝生に遊んでいるのだ。広場には小ぶりな大理石の円卓と椅子、そして鳥籠にも似た四人がけの東屋とがあり、公子と姫君たちはめいめい自分の寵臣と気に入った場所で過ごしている。
例えば三本腕の姫君の芝生の側、枝垂柳が白い花を揺らす下では、その根元に腰掛けた小さな公子がレースを編んでいる。柳の幹にもたれるようにして、あるいは寝転がったままその様子を双子の道化が眺めていて、時折片結びになっているとか、あるいは糸に通すビーズが抜けているとか助言するのだった。そのたびに公子のふわふわした大きな耳…色は髪と同じ金色だが、形は山羊か馬のようだ…これがひらひら揺れた。
三人が居るその場所は、見ようによっては柳の籠にも見えようか。小さな公子が顔を上げたとき、その前を二対の脚が横切っていった。白い脚に青い靴を履くのは彼の兄であり、紺碧のドレスに包んだ身体を白い儀礼服の騎士に委ねている。騎士は白孔雀のような髪を揺らして、腕の中の公子だけを見つめていた。周りなど見ずとも分かっているのだろう。公子の手を取ってくるりと回すときも、ドレスの裾のひときれたりともぶつけたり掠めさせることなく導いてみせた。
何時間でも踊っていられる。そんな顔の二人より先に、楽士が先に根を上げた。睦まじいのは幸いだけど、と断って手元のカリンバを円卓に置く。お二人もお休み下さいよ、と盃を掲げた側で、そうよ、と愛馬から飛び降りた姫君も声を上げた。
「お兄様ばかりたいちょうさんを独り占めして!わたくしまだ戦いのおはなしを聞けてないのよ!」
お話、と聞いて小さな公子の耳も跳ね上がる。レースから動いた視線を追って、双子の道化も顔を上げた。そうして小公子の両手をとり、片足立ちで円卓へ引き寄せる。
小公子と姫君二人が待っているとなれば、多数決でも…駄々をこねられればそれこそ…勝てやしないだろう。いいかい、と名残惜しげに見下ろす先で、小憎らしいちびたちに免じて、と兄公子が肩を竦めた。
六本腕で注がれた盃…姫君と公子には蜂蜜酒ではなくレモネード…を前にして、王族と寵臣たちが円卓につく。
その視線を一心に浴び、騎士隊長が口を開いた。
「ご存知のように、私は今朝がた人攫いどもを一括りに捕らえたわけですが……きっと姫さま、小公子さまについては、奴らの尻尾を掴むところからお話しするのを御所望でしょう。それを語るには我らが同胞の活躍からお話しせねばなりませんね……。」
昔、姫君を喪った国がある。
森の大穴の蜘蛛が心を寄せたからだ。
大蜘蛛は攫った娘を穴底に留める方法を知っていた。宮廷の在り様を穴の底に再現するのが常の手段で、それゆえ食糧だけでなく、家畜や衣服、装飾品、あるいは職人や芸人のような人々まで穴の底に引き摺りこんだのである。
何百年とそれを繰り返す間に職人や芸人たちも代替わりし、あるいは絶えたが、その技の殆どは蜘蛛の子らが引き継いだ。楽士がいない時はその代わりを務め、服職人がいない時は自らの手でドレスを仕立てたのである。とはいえ最も巧みであった芸はといえば、奪還者である騎士や戦士から盗んだ戦いの仕草であったろう。
大穴が住処でなくなった後も、子らはその芸を忘れなかった。王国に仕えてのちも技を磨き、影に日向にそれを披露している。
白淵騎士団の一個隊を任されるのもそれゆえで、子らの一人…あるいは二人が、代わる代わるに隊長を務めるのも、それに端を発している。
Comments