楽士エルーナゼメンア
昔、姫君を喪った国がある。
森の大穴の蜘蛛に囚われたのだ。
大穴の蜘蛛は色を好み、これまでも娘たちを捕らえ、囲い込んでいた。
大穴の主を討った騎士は、その噂の通りに、深い穴の底にいくつもの亡骸を見たという。
子蜘蛛らが王家に下ったとき、彼女たちは漸く陽のもとに運び出された。そうして今は、明け方から日暮れまで陽のあたる、南の陵墓に葬られている。
彼女らは白淵騎士団の守護霊とされ、その長たる子蜘蛛の裔は一層の加護を受けるとされた。
とはよく言ったもので、と青年が嘯いた。
青年の身体は宙に浮いていた。縄一本を梁に引っ掛け、それに掴まっているらしい。その縄のもう一端を見れば、鼻水と涎で顔を汚した男がぶら下がっている。縄は両手首を束ねるようにして繋がっていて、ひどく引っ張られでもしたのか、男の肌にひどい擦り傷をもたらしていた。
「実のところ、蜘蛛の裔ってのはぼくたちなんだが…」
ひい、ひい、と啜り泣きのような喘ぎ声を漏らす…肩も脱けているのかもしれない…男を一瞥し、青年は懐から短剣を抜く。慈悲深い母様たちのことだから、と彼が微笑んだ。
「少なくとも、ぼくの母様は優しい方でね」
暗闇に切っ先が閃いた。裏切り者の君も守ってくれるかもしれないな、なんて聞こえてはいないだろう。
鈍い落下音に遅れて、青年も空中に身を躍らせる。晩夏の蝉さながらの男を下敷きに、青年は体を痛めることなく着地できたようだった。青年が暗闇の中を見渡す。彼らが降りてきた梁はずいぶん遠く、落下音の反響を聞くに、降り立った空間も相当広いらしい。
身一つならいくらでも帰れるけれど。小さく傾げた首の毛筋一本ばかり横を、銀の矢尻が突き抜けた。青年が振り返る間もなく、第二射、第三射が射掛けられる。飛び退きざまに向き直った顔を、反射鏡で増幅された灯が灼いた。
夜目がきくから、否。それゆえの理由だけでなく、青年の眼は閃光に弱い。思わず閉じた瞼めがけて、銀の矢雨が降り注ぐ。閃光の中に捉えた影のみを頼りに、青年が外套を翻す。巨鳥の羽ばたきにも似た音とともに、彼を射抜くはずだった矢玉は外套に巻き取られた。だが、眩んだ視界の先では次の一射が引き絞られていることだろう。上に跳ぶか、退がるか、それとも弓の軌道を頼りに斬り込むか。あらゆる動きに備え、上方や左右に向けてまで、広く第二射が放たれる。そして正面、青年が斬り込むことに備えては、およそ人に向けるものでは無い大弩が放たれた。
けれど、果たして青年は動かなかった。矢面に体を向けたまま、避ける素振りすら見せずに胴体へ太い矢を受ける。長さも太さも自身の腕と変わらないものに貫かれ、そのまま灯も届かない暗がりへ吹き飛んだ。
やった、と誰ともなく弓兵が呟いた。白淵のいかな手練れの兵でも、大弩で針山にされては生きていないだろう。一丸となり、勇み足で暗がりへ向かう。灯を向ける。
その隊列の中で声はした。
「ぼくは糸人形だからねえ。」
音を立てて灯が転がった。手元に残った反射鏡も、音もなく割られていて役に立たない。散り散りに暗闇に逃げ込みながら、若い弓兵の目が大弩の針山を捉えた。
刺さっているじゃないか。当たっている。
思わず近寄って、けれど、彼が見たのは、抜け殻のように置き捨てられた衣服だけだった。
小気味良い音がした。硬いものを叩くような、けれど軽やかな響きである。出どころを探れば、一定の間隔で音が鳴るのは窓辺らしく、けれど庭木の枝が当たるのや小鳥が啄くのではない証左に、窓の色硝子を透かして大きな影が黒く見えた。
「殿下、殿下」
いらっしゃるんでしょう、とは分かりきったことを聞くものである。そしてこの訪問者の正体もまた、妖精めいた快いテノールで知れた。
いないッて言いなさい、と部屋の中央に据えられた寝台に身を伏せた男とは逆に、その周りで身を起こしていた娘たちが色めきたつ。
エル様、あるいは、エルーナ様と囁き合って、寝台の端や床に散らされた衣服をかき集める。とりあえずは自分のでなくとも、と下着を身につけ、上着がわりの…というには実に心許ない…薄絹の羽織りものを纏った娘が先んじて色硝子の窓を開けた。
「どうもありがとう!そしてご機嫌麗しゅう、お嬢さんがた!」
大人がやっと身を乗り出せるくらいの小さな窓から、するりと青年が滑り込む。鮮やかな青い外套が影のように続き、裾を華やかに縁取る金の刺繍がきらめいた。内側に着込むのは暗い焦げ茶の外衣と黒い革ベルトであるが、それもそれぞれ同色の刺繍で飾られている。ベルトには同じく革製の鞄が下がっていて、おそらく彼の商売道具……小さなカリンバ……が入っているはずだった。上品ながら華美な衣装。けれどそれは青年の容貌にも似て、厭らしさや不釣り合いさは感じられない。
やあご機嫌よう、お加減いかが?今日もお綺麗だ、花でも持ってくるんだったな…。娘たちに声を掛けながら、青年が寝台に歩み寄る。
「殿下もお元気そうで何よりです。」
柔らかな寝台に腰を沈め、青年が半身をねじった。本日の茶会と晩餐会ですが……。そう申し伝えて、けれど、顔まで上掛けで隠した"殿下"はといえば猫が不満を申し立てるような声で唸りを上げる。いつものことながら、とはいえ青年の眉尻が垂れた。ねえ殿下、と猫撫で声で呼びかけて、しかし上掛けの下から返るのは唸り声ばかりである。目元の垂れた困り顔で娘たちに助けを求めれば、殿下ったら、と呆れたように、あるいは、しょうがないわよ、と娘たちがきゃらきゃらと囀った。この男が意固地で堅苦しいのがお嫌いだというのはよく存じ上げている……それこそおねしょをしていた頃から。青年はまた肩をすくめて、ご機嫌斜めとあらば、と腰を上げた。
「姉上も城にお戻りなんですがねえ。」
茶会から楽しみにしてらしたのに、だから今日も賊伐を朝一に仕掛けて……おいたわしいなあ、と聞こえよがしにひとりごちる。あまりにあからさまな言葉であったが、しかし。
「貴殿それ早く言いなさいな!」
男を飛び起きさせるには十分であったらしい。サイドボードに置かれた懐中時計に目を向け、1時間待ってらっしゃい、と上掛けを跳ね上げた。彼が浴室へ駆け込むのを見送って、水音が聞こえ出すとともに青年と娘も笑い出す。ほんとうに姉上はお幸せでいらっしゃる。ため息交じりに青年がこぼした。
昔、姫君を喪った国がある。
森の大穴の蜘蛛に囚われたのだ。
大穴の蜘蛛は色を好み、これまでも娘たちを捕らえ、囲い込んでいた。
大穴の蜘蛛は情を交わした娘へと、子どもの代わりの糸人形を作って渡した。
人形とはいえ、大穴の主が手づから作った魔法の人形である。動き、話し、両親である大穴の蜘蛛と母親の愛するものを同じように愛した。赤ん坊の姿で手渡されたそれは、娘が生き続ける限り歳を重ね、継ぎ足される糸でもって人のように大きくなった。
子らは己を白淵騎士団に並ぶ守護者と自負し、母たちの同胞として王族と臣民とを慈しむこと限りがない。
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