道化師レーミニアブラハとミレーニアブラハ
昔、姫君を喪った国がある。
森の大穴の蜘蛛に奪われたのだ。
大穴の主はともかく、その子蜘蛛たちもひどく手強く、姫君を取り戻さんと送った精鋭はそのまま彼らの腹に収まった。
償いのため王家に下ったとき、それゆえ当代の王はこう命じたという。食った兵士と、かれらが残すはずだった子らの数だけ民を守れ、傷付くはずの者を長らえさせよ。
それが今代の白淵騎士団の使命であり、その長たる子蜘蛛の裔が得意とするところである。
覚えがあるだろ、と少女が囁いた。
彼女がしなだれかかるのは、大人ほどもある大きな繭である。それは人の頭と肩と、暗がりでも分かる凹凸を伴っていた。少女が唇を寄せる近くには片耳が露わになっていて、その少し遠くに目をやれば、浅く、忙しく呼吸を繰り返す口元も見えるだろう。
「貴殿は正しく騎士だった。ただ、少し賭場に通いすぎて、不幸なことに負けがかさんで、ちょっとしたお目溢しをしなきゃいけなくなっただけさ」
そうだろう、なあ?遊女が客を甘やかすような声をして、少女が繭の首筋に頬をすり寄せる。お言いよ、と。陶器のような指が、乾いた唇をゆっくり撫ぜた。
「ご立派だな、まだ喋らないのか」
少女の言葉と繭の喘ぎの他には何も聞こえない、その静けさを破ったのは少年の声だった。声変わり前の高いソプラノ、けれど、年頃に似合わない厳しさと皮肉を含んでいた。
目を細めて伸びをするところを見るに、仮眠でもとっていたのだろう。自身がもたれていた繭を無造作に転がして、少年が立ち上がる。
「…かれ、ら、どう…って」
足音を聞きつけた繭が訊く。震えることすらできないほどに繭はきつく巻かれていたが、声の掠れが渇きのせいだけでないとはたやすく知れた。二人が顔を見合わせて笑い合う。
「どうなったと思うんだ?」
「耳を澄ませば分かるかねえ」
声ばかりは子どものそれだ。墳墓めいた穴ぐらには似つかわしくない声が谺する。その哄笑に弾かれるようにして、繭の口から掠れた悲鳴が迸った。
「しゃべる、何でも…話すから、だしてくれ!出して、お願いです、暑い…!」
暑い、暑い、と。半狂乱で叫びながら、乾ききった口腔には唾液すら滲んでいない。蜘蛛の糸に巻き取られた獲物は、窒息と熱で死ぬと聞く。はたして、この繭も蜘蛛糸に似た素材でできているらしかった。二人の他には…他に誰かがいたとして…見えないだろうが、露わになった肌は赤らみ、口元には玉の汗が浮かんでいる。
それはもちろん。喋れば外す、と意地悪く笑う少女に少年が笑い返し、ふと、そのまま穴ぐらの入り口に目を向けた。
「いやどうぞ、続けて?」
墳墓の壁にもたれて、細身の人影が優美に手を振る。愉快そうに繭を見やるところを見るに、それもまた二人の一味であるらしかった。
「何、動きがあったと伝えにきたのさ。人攫いどもは明日の真夜中に出港の予定だが、上玉が入ればその限りではないらしい」
何にせよ、急ぐべきかもな…遊ぶのだってほどほどに。それだけ言い残し、横穴の暗がりに溶けるようにして姿を消した。残った二人は何事かを囁き合って、程なく、大儀そうに腰を上げる。それを察したのか、どこへ行くのかと繭が喘ぎまじりの悲鳴を上げた。話せば解放すると言ったろ!?
「言ったよ。言ったともさ。…ただ…」
「俺たちの知らないことを話したら、そういう事だったと思うが」
先の二人がべらべら話してくれたからねえ!
そう言って笑い出した二人の哄笑と繭の悲鳴とが、穴ぐらの中にこだました。
厩舎から裸馬が飛び出した。馬具一つ付けないそれに跨るのは若い、むしろ少年と言っても過言ではない騎手である。かれらから一歩遅れて、血相を変えた厩舎番がまろび出た。
殿下!悲鳴に似た声で呼びかけるも、すでに馬は家一軒分も遠くにある。へたりこんだ厩舎番の横を、ゆったりとしたケープを纏った小柄な人影が駆け抜けた。
「殿下ァー!」
「お待ちください!」
駆ける人影は一つ、けれど声は二つ、騎手より少し年下であろう男女の声色である。ケープから覗く足は左右揃いのブーツであるが、左脚の方がわずかに華奢だ。それというのも、正面から見れば知れるだろう、それぞれ半身がいびつに潰れた…あるいは半身のみしか育たなかった…双子の姉弟が、互いの欠損を補うようにして身を寄せあい、一人分の人間のかたちをして走っているのである。服こそ濃さの異なる灰色だが、同じ金髪、蝋のような同じ肌色ときて、ほぼ隙間なくくっついているとくれば、遠目には一人の人間にしか見えないだろう。それぞれに口がありながら、けれど片半分が窪んだ顔でゆるい直角に位置しているがために、組み合わさった姿ではこちらも…よく見れば姉の方は乱杭歯なのだが…一つの口に舌が二つあるように見える。その口が代わる代わるに動いて、馬上の少年に静止を求めていた。
「どうか、どうか考え直してくださいまし!末の姫様はあたくしどもでお探しします!」
「ましてシエナがついているのです!何の危険がありましょうか!」
いい子ですから!そう叫ぶ双子が馬に並ぶ。片脚ずつに体重をかけて地を蹴る、やや不格好な走り方ではあるが、その速さは見ての通りである。そこで初めて騎手の少年は彼らを見下ろし、たったいま気付いたという顔で目を丸くした。顔の横ではたはたとなびく、髪と揃いの茶色い和毛で覆われた長い耳…風を受けているために聞こえていなかったのかもしれない…片手でこれを持ち上げれば、双子から悲鳴が上がる。
「前をご覧くださいな!耳もおろして!」
「道化めがそちらに参ります!ですから!」
双子が強く地を蹴った。狼か何かが喰いつくように馬の背にしがみつく。先に乗り上げた弟が姉を引き上げ、それぞれ横ざまに腰掛けるようにして騎乗した。騎手の少年がちらりと振り向き、二人の姿を認めて満足げに笑う。けれど馬の脚が止まることはなく、むしろ耳元に合図を受けて、早まるばかり。
「殿下、不肖このあたくしめとミレーナめが申し上げてはおきますがね、末の姫様が危ないとか心配だって仰るなら」
「殿下も殿下で危地に踏み込むわけでしょう。どれだけ俺とレーミナめが心を痛めているかお分かりですか」
ですからねえ。自身よりすこし丈のある背を見上げて、双子が言い淀む。少年が小さく首を傾げている。それだけで二人は察してしまって、顔を見合わせて首を振った。
「殿下、まさかとは思いますが」
「もしやあなた様も楽しみで…」
末の姫様も良い口実を作ってくれたものよ…ため息混じりに嘯けば、少年の肩が震える。くつくつと漏れた笑い声に、ただし!と言い添え、双子の手が少年の背をしっかり掴んだ。
「あたくしどももついて参りますよ」
「危ないと思ったら引き摺ってでも帰ります」
ご承知おきを、と力の籠る手にそれぞれ触れて、少年はまた馬の腹を蹴った。
昔、姫君を喪った国がある。
森の大穴の蜘蛛が閉じ込めたのだ。
大穴の主はもちろん、その子蜘蛛たちもすべからく姫君を慕っては、庇護し、不自由の無いようにと世話を焼いた。
償いのため王家に下ったとき、当代の王は傷一つ無い亡骸からそれを見てとった。そうして彼らに任せたのである。ここにいる王子や王女、かつての王子といつかの王女らを守り、扶けよ、彼女が残すはずだった子と見て、長らえさせよ、と。
これは道化者たちの名誉であり、彼らが世話役として宮廷に侍る褒賞なのである。
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