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青吊

地蜘の夢 1


道化師シエラレバンナス


昔、姫君を喪った国がある。

森の大穴の蜘蛛の毒気で喪ったのだ。

大穴の主は共に死んだが、子蜘蛛たちが後に残った。そうして彼らは償いのため、代々国に、王家に仕えることになった。

それが今代の白淵騎士団の起こりであり、その長こそ子蜘蛛の裔である。


そういうことになっておりますね、と男が言った。

男の手が剣を弄ぶ。否、剣だろうか。柄とその刃は剣に似ている。けれど、虫の脚に似て節くれだった刀身と、片刃に跨るように盛り上がった錆の塊…大人の拳ほどもある蜘蛛のような…その姿形は、見慣れた剣とは異なっていた。

「白い大穴を模した外套、蜘蛛に似せた印章。まあ何と羨ましい、妬ましい花形どもでございますやら」

その眼下で這いつくばり、青年は目だけで男を窺う。手足はわずかに痙攣するばかりでまともに動いていない。毒でも盛られたようだった。

「…は、んで」

あで、あんで…。呂律の回らない言葉とはいえ汲み取って、けれど、男は底意地悪く笑う。蹴り転がすようにして青年の体を浮かせ、彼と地面とに挟まれた白い外套を摘み上げた。

「誉れ高き白淵の騎士どのといえど、まあどうしてお酒が過ぎることがあるようですな」

こうも汚しては泥淵でしょうが。きたならしいものを摘むような大袈裟な仕草で馬鹿にされて、しかし、青年に怒りは見出せない。むしろその目が見開かれたのは驚きゆえだった。

「こうも汚してお似合いなら、むしろ私めの小汚い外套こそ似合うというもの。取り替えっこいたしましょうか。私めでしたらその外套、毛筋ほどの汚れも付けずに纏って差し上げられますよ」

剣を握る右手、それを玩ぶ左手、青年の外套を摘んだ三節の右手、自身の外套を翻す一節の、否、あまりに短い…子どもの腕のような…左手。そして腰から生え、虫の触肢のように折り畳まれた一対の脚。

外套の中に隠れた異形を目の当たりに、青年が息を呑んだ。そうして思い出す。騎士団の演習中に見た、あの時は男が這いつくばっていた。初夏の庭園で宮廷画家の前に並び、退屈にぐずる末姫をあの手この手であやしていた。

「ほまへ……らうけ。きゅうてえ、どうけの…!」

蹄の音が声を遮る。けれどやはり、意は汲んだのだろう。男の笑顔が忌々しげに歪んだ。

その手が再び剣を握り込むのを、後ろから伸びた鞭が阻む。

「逆賊は宮廷にお連れせよとのお達しだよ」

「今は余計な傷を増やすなと仰せだったろ」

路地を塞ぐようにして、二頭立ての馬車が止まっていた。鞭はその御者の手から、けれどあまりに遠く…青年と男の位置までは家一軒分ほども距離がある…へ伸びているのである。承知の上でございますよ。へらりと笑った男が鞭を振り解けば、次いでそれは青年に絡みつき、馬車の中へと彼を引き摺り込んだ。間髪入れず、馬に鞭が当てられる。

男も慌ててステップに飛び乗り、馬車と共に夜闇に消えていった。


扉につけた小さな耳が、鍵の回る音を聞きつけた。内開きの扉が開く方向に立ち、いつでも走り出せるようにネグリジェの裾を…つまさきをゆうに覆う布地を踏んで、一歩踏み出すまでもなく転げたのは記憶に新しい…はしたないと言われない程度に持ち上げる。

「失礼致します」

侍従らが恭しく頭を下げる、そのすぐ横。伏せた頭の真下を、侍従たちの間をと、器用にその隙間をすり抜けて、小さな白いものが素早く駆けだした。

「…姫様!」

年かさの侍女が悲鳴のような声を上げる。お止めして!と叫んでも、宮廷仕えの浅い若い侍女はうろたえるばかりで手も伸ばせない。寝巻きをはたはたと翻す"姫様"はみるみるうちに廊下を遠ざかっていく。角を曲がり、この先の階段を下りれば、と。ほくそ笑む少女の身体が、ふいに上へと跳ね上がった。

小さな悲鳴に次ぐのは笑い声。横から伸ばされた手に抱えられて、手の持ち主の頭上に掲げられた少女が楽しげに、けれど不服そうに暴れてみせる。

「じい!」

離しなさいな、あたくしは港へ行くのよ!

胴上げよろしく自身を抱える掌を引き剥がそうと、少女は両腕と二本目の右手に力を込めた。けれど、決して苦しくない程度の力しか籠っていないはずなのに、手どころか指の一本すらびくともしない。それどころか親指と人差し指の二本を残し、他の指で少女の脇腹をくすぐり始めるものだから、遂に少女はけたけたと笑い出した。

少女を掲げるのは赤衣の男だった。背嚢か剣でも山ほど帯びているかのように膨れたマントから、黒い袖に覆われた骨張った手を伸ばしている。並べば死人の方が血色良く見えるような顔には、そこばかりが生き生きと輝く藍色の目が一対と一つ並んでいた。

「ところで姫様」

息も絶え絶えになった少女を下ろし、男の顔が引き締まる。何をしに港へ行くおつもりで?そう問えば、少女は捕り物を見に行くのだと言った。

「騎士様たちが仰ってたのよ。人攫いの船が分かったから、それを捕らえに行くのですって」

「剣を振るばかりの蜘蛛どもも、ただ飯食いのこんこんちきというわけではないというわけですな」

真面目な顔での皮肉には笑いを堪えつつ、失礼なことおっしゃらないで、と少女は眦を吊り上げてみせる。それには応えず、しい、と唇に指を当て、男は少女を抱えたままの腕を静かにマントの中へ潜らせた。

「…シエナ殿」

気後れを垣間見せる侍従の声が男を呼んだ。マントの中では少女が自分の口を片手で覆い、もう片手で男の矮腕を握りしめた。赤衣の男、シエナと呼ばれた道化師はといえば、これはご老体がた、と恭しく…少女が転げ落ちないようにしっかり抱きかかえて…一礼してみせる。姫様は、とヒステリックに声を上げるのは若い侍女で、それを聞いてやっと思い出したようにシエナも慌ててみせた。

「下!下でございますよ!そうでした大変です!姫様といえばまあ大慌てで、庭園へ行かれるだの厩舎に行こうかだのお忙しいご様子で…」

「シエナどの」

はぁい。えへら、と道化が笑いかけたその先で渋面を作るのは、落ち着きを取り戻した年かさの侍女だった。腕を出していただけます?

「ええもちろん」

不思議なことを仰いますなあ。そう笑ってシエナがドレープの間から腕を出す。骨張った長い腕を二本、出たのは肩から伸びる両腕である。

「全部です」

一欠片も渋面を和らげず、ともすれば更に眉間に皺すら寄せて、年かさの侍女がシエナに命じた。ドミスラフ伯爵夫人ごめんなさいシエナは隠してくれただけなの命じたわけでもないし多分ふざけたわけでもないのよ怒らないで…!そう言って飛び出しそうになる少女をマントの内側で押さえ、シエナがもう一本腕を伸ばす。脇腹から突き出た短い左腕を見て、けれど年かさの侍女…伯爵夫人は、もう一本ございますね?と低い声を出した。

諦めたように、渋々といったていでシエナが二本目の右腕を差し出す。三つの肘を備えたそれが床に垂れるが、果たしてマントの中から少女が現れることはなかった。足元を覗き込んだ侍従もまた、シエナの…これまた骨張って細長い…二本の脚ばかりなのを見てとって、不思議そうに首を傾げる。

「…悪いことをしましたね」

けれどやはり腑に落ちない、そんな渋面で謝辞を述べられ、シエナはといえば満面の笑みで恭しく…慇懃なくらいに…頭を垂れてみせた。いやはやわたくしめこそ見苦しいものを、お詫びにわたくしめが、いえいえ"わたくしども"が、責任をもって持って姫様をお探し致しましょう。

異形の両腕をしまいながらそう言えば、そうね、と伯爵夫人がため息をついた。あなた方の方が姫様の行く先は分かるでしょうとも、もしお会いしたら、早いお帰りをと申し上げてくださいませね。

踵を返した伯爵夫人に続き、侍従たちが姿を消す。その姿が見えなくなるまで見送ったのち、シエナは大仰にため息をついた。

「…もういない?」

その腹あたり、マントを緞帳のようにまくり上げた下から、待ちきれないといった慌ただしさで少女が顔を出した。彼女が腰掛けるのはシエナの二対目の脚の上で、ちょうど空中で片膝を立てて座るように組んだ中に収まっているのだった。

勢いこんで滑り降りられ、シエナの脚に痺れが走る。ひい、と情けなげな声を上げたのもどこ吹く風で、行きましょう、急いで!と少女がシエナの手を引いた。


昔、この国は姫君を喪った。

森の大穴の蜘蛛に見初められ、かれのもたらす毒気の中でしか生きられないようにされたのだ。

けれど誰もそれを知らなかったから、蜘蛛は討たれ、姫君は国へ戻ることになる。

大穴の主の遺言で、子蜘蛛たちは姫君を追いかけた。けれど力及ばず、姫君を包んだ繭牢は城へ帰り、それが切り開かれるとともに、姫君は息絶えた。

生き残った子蜘蛛たちは遺言を果たせなかったことを悔い、償いのため、王家に仕えることを誓った。

それが道化者たちの起こりであり、彼らが笑い者として宮廷に侍る理由なのである。




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