「私を知っているの」
からからに渇いた口をなんとか動かして、サラが言った。どことも知れない街の、聞き覚えのない声の主が、自身すら定かでない“私”を知っていると言う。思わず手を伸ばした窓の中で、曇り硝子ごしに、人影もまた身を乗り出した。
「知っていますとも!サラ様、あなたこそ、どうしてまだ日も暮れていないのに記憶に生涯が・・・ああ、まさか、でも、やはり!やはり、昨晩月を墜とされたのはあなただったのですね・・・!」
ありがとうございます、と。やはりあなたは優れた衛士です、と。賛辞を口にされて、サラは戸惑いながら相手を押し留める。
「待って、違うわ。私、私はあなたの言う“サラ”じゃない。だって、そもそもここがどこかすら知らないのよ。それに・・・月を墜とすですって?ありえないわ。聞いたこともない!」
「いいえ。あなたこそ、月を墜としたサラ様ですとも!なにもかも忘れてらっしゃるのがその証です。月を墜とした衛士様たちはみな、そうなるもので・・・」
不意に女性が咳き込み、言葉が絶えた。嗄れた声といい、彼女は何か重い病で籠もっているのかもしれない。そのしばらくの沈黙の間も、サラの頭は混乱し続けていた。月を墜とすだなんて、まして、墜とせば記憶を失うだなんて。でも、それが本当なら、私はいったいどうやって、否、それより、どうして月を墜としたのだろう。
やがて、ひゅうひゅうと喉をならしながら、また、女性が口を開いた。
「忘れておいででも、ええ、大丈夫ですよ。バイロン様にお会いになることです。あの方なら、今のサラ様が分からないことをすべて教えてくださいますから。燈火の使い方は・・・灯し方は、おわかりですか?」
それについては分かっていた。教えられた覚えはない。けれど、直感と、庭で会った小人たちの所作と直感とで、なんとなくは。行きたい場所を思い浮かべて燈火に触れる。それでいいのではなかったか。
礼を述べて、サラが窓を離れた。けれど、二歩も歩いて、ふと、振り返る。ねえ、と、もう窓辺を離れたかもしれない彼女に呼びかけた。
「親切な方、あなたは・・・?」
サラの言葉に、また人影が応えた。
「わたくしは番人です。ここの燈火の番の、ジリアン。昨晩は、僭越ながらあなた様に、いくらか助言をさせていただきました」
もう動けない身ですが、言葉だけはまだ。そう言う彼女が、ジリアンが、また咳き込む。やはり、病人特有の重い咳であったのだ、それでも応えてくれた彼女に、ありがとう、と一言告げて、今度こそサラが燈火に向き直る。
「また、月を墜とせるように願っております。大丈夫ですよ。なんどでも、はじめましてをいたしましょう!サラ様、お気をつけて!」
ジリアンの声を背に受けて、サラは燈火に手を伸ばす。また、世界が靄がかったように歪み、変わる。そうして一瞬陰ったかと思えば、つかの間、サラはまたあの庭園に、一人、立っていた。
そうして辺りを見回せば、やはり、ガゼボに一つ、人影が見える。あれが“バイロン”だろうか。近寄るが、しかし、いたのは幼げな少女だった。淡いバラ色のネグリジェに身を包み、柱に頭を預けて眠っている。起こして、話を聞くべきか。そう思ったとき、背後から声がかかった。
「おかえり、サラ」
振り向けば、松葉杖の男が微笑んでいる。神父や牧師の着るような、長い詰め襟の長衣を纏い、長い金髪を三つ編みにまとめた男である。あなたは、とサラが訊ねるより先に、男は、席へ座るように促した。
「やはり、覚えていないようだ。君は一度、月を墜とした身だからね、当然だとも。ああ、身構えなくていい。私は・・・ええと、バイロン・・・バイロンだ。君たち衛士の友であり、この、月見の塔の管理を任されているものだよ」
眠る少女の横、バイロンの正面に腰を下ろしたはいいものの、サラの頭には訊きたいことが溢れていて、まとまらない。途方に暮れたように目をさまよわせるサラの姿に、バイロンが苦笑いを浮かべた。
「一度、ここには来たらしいが・・・何が何だか、という顔だね。だろうとも。分かるよ。とりあえず君がすべきは、外の悪夢を・・・君を襲う怪物たちを、何も考えずに刈ることだ。それから、燈火も灯さなくてはね」
バイロンは言う。この地域、ガスプホロウの一帯に昇る月は、月に化けた怪物なのだと。その怪物、偽りの満月が振りまく光には毒があって、人間の精神と肉体を蝕み、変質させ、人に害をなす怪物に変えてしまうという。更に悪いことに、怪物になった患者、苗床と呼ばれるそれには増殖性があって、滅ぼすまで延々と自身の分身の怪物を、衛士たちが悪夢と呼ぶそれを生み出し続けるのだ。その、病の月光に抗するものとして燈火があるのだが、しかし、偽りの満月に操られた苗床や悪夢たちによって、しばしば消されてしまうのだという。
「病の根絶と予防、それが衛士の役割だ」
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