top of page
青吊

Gasp Hollow 3

「私を知っているの」

からからに渇いた口をなんとか動かして、サラが言った。どことも知れない街の、聞き覚えのない声の主が、自身すら定かでない“私”を知っていると言う。思わず手を伸ばした窓の中で、曇り硝子ごしに、人影もまた身を乗り出した。

「知っていますとも!サラ様、あなたこそ、どうしてまだ日も暮れていないのに記憶に生涯が・・・ああ、まさか、でも、やはり!やはり、昨晩月を墜とされたのはあなただったのですね・・・!」

ありがとうございます、と。やはりあなたは優れた衛士です、と。賛辞を口にされて、サラは戸惑いながら相手を押し留める。

「待って、違うわ。私、私はあなたの言う“サラ”じゃない。だって、そもそもここがどこかすら知らないのよ。それに・・・月を墜とすですって?ありえないわ。聞いたこともない!」

「いいえ。あなたこそ、月を墜としたサラ様ですとも!なにもかも忘れてらっしゃるのがその証です。月を墜とした衛士様たちはみな、そうなるもので・・・」

不意に女性が咳き込み、言葉が絶えた。嗄れた声といい、彼女は何か重い病で籠もっているのかもしれない。そのしばらくの沈黙の間も、サラの頭は混乱し続けていた。月を墜とすだなんて、まして、墜とせば記憶を失うだなんて。でも、それが本当なら、私はいったいどうやって、否、それより、どうして月を墜としたのだろう。

やがて、ひゅうひゅうと喉をならしながら、また、女性が口を開いた。

「忘れておいででも、ええ、大丈夫ですよ。バイロン様にお会いになることです。あの方なら、今のサラ様が分からないことをすべて教えてくださいますから。燈火の使い方は・・・灯し方は、おわかりですか?」

それについては分かっていた。教えられた覚えはない。けれど、直感と、庭で会った小人たちの所作と直感とで、なんとなくは。行きたい場所を思い浮かべて燈火に触れる。それでいいのではなかったか。

礼を述べて、サラが窓を離れた。けれど、二歩も歩いて、ふと、振り返る。ねえ、と、もう窓辺を離れたかもしれない彼女に呼びかけた。

「親切な方、あなたは・・・?」

サラの言葉に、また人影が応えた。

「わたくしは番人です。ここの燈火の番の、ジリアン。昨晩は、僭越ながらあなた様に、いくらか助言をさせていただきました」

もう動けない身ですが、言葉だけはまだ。そう言う彼女が、ジリアンが、また咳き込む。やはり、病人特有の重い咳であったのだ、それでも応えてくれた彼女に、ありがとう、と一言告げて、今度こそサラが燈火に向き直る。

「また、月を墜とせるように願っております。大丈夫ですよ。なんどでも、はじめましてをいたしましょう!サラ様、お気をつけて!」

ジリアンの声を背に受けて、サラは燈火に手を伸ばす。また、世界が靄がかったように歪み、変わる。そうして一瞬陰ったかと思えば、つかの間、サラはまたあの庭園に、一人、立っていた。

そうして辺りを見回せば、やはり、ガゼボに一つ、人影が見える。あれが“バイロン”だろうか。近寄るが、しかし、いたのは幼げな少女だった。淡いバラ色のネグリジェに身を包み、柱に頭を預けて眠っている。起こして、話を聞くべきか。そう思ったとき、背後から声がかかった。

「おかえり、サラ」

振り向けば、松葉杖の男が微笑んでいる。神父や牧師の着るような、長い詰め襟の長衣を纏い、長い金髪を三つ編みにまとめた男である。あなたは、とサラが訊ねるより先に、男は、席へ座るように促した。

「やはり、覚えていないようだ。君は一度、月を墜とした身だからね、当然だとも。ああ、身構えなくていい。私は・・・ええと、バイロン・・・バイロンだ。君たち衛士の友であり、この、月見の塔の管理を任されているものだよ」

眠る少女の横、バイロンの正面に腰を下ろしたはいいものの、サラの頭には訊きたいことが溢れていて、まとまらない。途方に暮れたように目をさまよわせるサラの姿に、バイロンが苦笑いを浮かべた。

「一度、ここには来たらしいが・・・何が何だか、という顔だね。だろうとも。分かるよ。とりあえず君がすべきは、外の悪夢を・・・君を襲う怪物たちを、何も考えずに刈ることだ。それから、燈火も灯さなくてはね」

バイロンは言う。この地域、ガスプホロウの一帯に昇る月は、月に化けた怪物なのだと。その怪物、偽りの満月が振りまく光には毒があって、人間の精神と肉体を蝕み、変質させ、人に害をなす怪物に変えてしまうという。更に悪いことに、怪物になった患者、苗床と呼ばれるそれには増殖性があって、滅ぼすまで延々と自身の分身の怪物を、衛士たちが悪夢と呼ぶそれを生み出し続けるのだ。その、病の月光に抗するものとして燈火があるのだが、しかし、偽りの満月に操られた苗床や悪夢たちによって、しばしば消されてしまうのだという。

「病の根絶と予防、それが衛士の役割だ」



閲覧数:3回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Gasp Hollow 11

広間の先は一本道の水道で、はぐれの悪夢すらいない長い道を、サラは一人進んでいった。その果てには狭い煉瓦の螺旋階段が待っていて、それを上がれば、やっと地上に出るのだった。とはいえ、それがどの辺りかは分からない。橋は近くに見えているけれど、路地二つか三つ分くらいは離れたところに...

Gasp hollow 10

そう、溺死体。顔ばかりが白く美しく、しかし、胴体は水を含んで膨れ、弛んだ、下半身に魚の尾を持つ巨人の死体。けれど、否。そうではなかった。近寄ったその瞬間、"それ"の目がぎょろりと動いて、サラを見た。これもまた、悪夢の一形態だろうか。そう思ったのを否定するように、"それ"の腹...

Gasp Hollow 8

しばらくこの辺りで刈りとりを続ける、そう言うキャロラインとは橋で別れて、サラはジリアンの家をまた訪れていた。大通りの悪夢の残党を刈りとりがてら…苗床を倒して気が大きくなってもいたものだから…この後どこへ行くべきか、昨晩の自分はどうしていたのか、助言を仰ごうと思ったのだ。...

Comments


bottom of page