ある常連の話
振り向いたそばに黒い瞳があった。
海に沈んだ私のすぐ傍を、鮫が通り過ぎたのである。海の中にあって灰色がかった体表をした、子ども二人分ほどの大きな鮫だった。
あるいは私も小学校に上がったばかりだったから、余計大きく見えたのかもしれない。
鮫は四つ上の兄を咥え、血煙と破片とをばら撒きながら帰るところであるらしかった。ざらついた肌に擦られたと思ったのも私だけで、鮫はこちらを睨め付けもせずに去っていく。破片に食いつく取り巻きたちも一緒に海の深みへ消えて、そうしてやっと、私は呼吸を思い出した。浮上し、鼻呼吸をして飲み込んだ海水で咳きこみながら、遅れてやってきたライフセーバーに引き上げられたのを憶えている。
「幼児体験といえばそれかしら。」
肘をついた客人が言った。頬を包んでいた掌で傍らのカクテルグラスをつまみ、可愛らしくすぼめた唇をつける。
あからさまに顔を変えたのはその右隣のスキンヘッドの男だ。ゲェ、と舌を出して、管理人の甥御がいたら泣いて喜ぶ症例だと呻いてみせる。客人も負けず、笑んだ口元だけは隠しもせずに両掌で顔を覆って、ひどぉい、と左隣の詰襟のドレスを着た女に泣きつくふりをした。
「野良犬のダーリンが意地悪言うの!」
自分よりは一回り背も体躯も大きな客人を抱きとめて、詰襟の女が破顔する。かわいいいじめられっ子さん、と客人に呼びかけて、これ見よがしに野良犬と呼ばれた男に目をやった。ケッ、と男が悪態をついてココアをあおる。
ふと、その懐で携帯が震えた。液晶から持ち上げた男の顔には皮肉げな笑みが浮かんでいて、けろっとした顔で客人が激励を送れば、おう行ってくる、と凶相で笑い返した。
「でも、不思議ですね。」
だぼだぼのトレンチコートが揺れる背を見送る背後、カウンターの中で呟いたのは、開けた口の隙間で二又の舌を揺らす壮年の男である。背筋こそ伸びているが顔の皺や白髪は老爺と言っても過言ではない彼を杭打ちのダーリンと呼んで、何が不思議なのかしら、と客人が訊いた。
「お客様の体験ですよ。目の前で兄が死んだ。その死体が食い荒らされるのを目撃した。自分も危険な場所にいた。トラウマを負って然るべきでしょう。それが……。」
「むしろ、憧れてる。」
空いた席でシュウシュウと言葉を引き継いだのは、ひと一人は丸呑みにできそうな銀色の大蛇である。這い寄るダーリン!と歓声を上げた客人にウインクして、大蛇がレモンスカッシュを杭打ちのダーリン……バーテンダーをつとめる男に注文した。
「まるで分からん話でもない。昔の話になるが、私の信者はそうして深い信仰を得るものが多かった。絶対的な支配者が、自分だけはお目溢ししてくれる、と。多くの者はね。」
そうでも思わなければ平静ではいられまい。
自己防衛ゆえの心理でも我ら捕食者には都合が良くてねえ、と大蛇が牙を剥いて笑う。きゃあと身をすくませた客人が、けれど笑って、そうかも、と応える。
「命乞いして許してもらえそうだと、すごくぞくぞくするもの。さっきまで追いかけてきたダーリンが助け起こしてくれたりするとね、もうとっ……てもどきどきして、そのあと分かりやすく致命傷負わされたりするときゅーんってするの!」
ほころぶ顔を両掌で包んで、恥ずかしげに客人がカウンターに突っ伏した。それを見下ろす三者も分かりやすく頬を緩ませて、けれど客人が顔を上げる前に引き締める。祭祀者寄りの少数派みたいだが、と前置いて大蛇がバーテンダーに耳打ちした。
「人間はそうそう変わらないね。……それに、むしろ、君こそそんな心理が分かると思うのだけれど。そうだろう、フィルムスター?」
バーテンダーはレモンジャムを一掬いグラスに落として、何のことか、としらを切る。その横でまた携帯が震えた。今度はカウンターに置かれた客人のものである。
「そろそろみたい。」
そろそろ、というのはアトラクションの順番待ちのことである。先程は詰襟の女と回ってきたが、また別の案内人と予約を入れているらしい。
「次は誰?浮気者さん。」
詰襟の女が頬をつつく。その指に口付けて、博愛主義者って呼んで、と客人がふざけた。
グラスの残りを飲み干して、行ってきます、とバーカウンターに向いた背に声援がかかる。
客人の姿が待合室に消えるが早いか、バーテンダーがカウンター上の液晶に手をかけた。チャンネルを切り替えれば、脅かし役しかいない廊下と、真っ暗なままの画面が映る。
「商売あがったりかもしれませんね。」
あの客人の活躍までにおつまみを、と。とりささみの解凍を始めたバーテンダーが言う。
「同業者の話ですよ。無慈悲に殺されたい、ライバルやペットとも思われないままずたずたに嬲られたい……そんな性癖のニーズに応えて、他者に共感して興奮するコンテンツがあったわけです。それが我らのビデオや、あるいはその現場の参観だったりしたわけですが……ふふ。」
こうも安全で刺激的な施設があってはね。
転職してよかったと呟くのを呆れ笑いで見上げて、詰襟の女が声を上げた。
「ねえ、この組み合わせは初めてじゃなくて?」
視線の先の液晶には、一階層への階段を上る客人たちの姿がある。人影は三つ。客人一人と案内人が二人である。
「男爵の侍女たちか。これは見た目にも映えるが……あの拘束具だろう。……ふふ。」
我らが愛妾のことだ、と大蛇がにやついた。
「貴方、ろくでもないこと考えてらっしゃるでしょう。」
詰襟の女もつられて笑って、当てましょうか、と言葉を続ける。
「おおかた、お客様が拘束具を外さずに挑むんじゃないかってお考えじゃなくて?」
「分かるかい。」
「分かりますとも。でも、私は鉄の固定具だけは外すと思いますわ。ほら、両手指を固定する、あの……。」
「そこは見解の分かれるところですな。」
加わってきたバーテンダーに蛇も肯き返す。
わたくしは鉄籠のパニエのみ、なら私はあの重い飾りだと思うな……と、三者三様に予想を語る。果たして客人がどの不利を解消するか……否、手放すか……の結果を、三者が食い入るように見守り始めた。
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